思いつくままのブログ記事

 C-PTSD(複雑性外傷後ストレス障害)の概念は未だに米国のDSMには採用されていないが、国連のWHOの疾病分類では去年6月に発表された最新のICD-11から採用されている。
CIMG3058.jpg ジュディス・ルイス・ハーマンが『心的外傷と回復 』(1992)の中で初めて提案したC-PTSDのモチーフは社会生活に潜む継続的暴力によるものだが、それを押し進めた、彼女の影響を受けた英米カウンセラーによる、なんらかの人格障害の近親者からの被害としてのC-PTSDという最近のアイデアは、かなりドラスティックな衝撃を与える(じゃあ何でもありじゃないか的な意味においても)。
 C-PTSD概念の提唱者であるハーマンは女性であり、主張の中でも多く家庭内での(性)暴力の被害を念頭に置いているが、以前紹介したスティーヴン・ジョゼフの『トラウマ後成長と回復』でBPDとPTSDをつなげようとしていた勢力がフェミニズム方面の人々であったのも、元締めである彼女の影響が予想されるような気がする。ただ、日本語版Wikipediaではハーマン自体がラディカルフェミニストとして紹介されてはいるのだが、ソースはいまいちよくわからなかった。また記憶回復療法は(効果はともかく、また催眠術を利用せず対話によって引き出すものも含めれば)フロイトから今に至る一般的な方法のひとつであり、記憶の不正確性や事後的な改変が起こることも新しい知見ではまったくないので、日本語版Wikipediaでのこれらをひとからげに「ハーマン一派」に帰責する説明は誤っているか言葉足らずである(当時の訴訟の成り行きを根拠に過分なことまで否定しているように受け取れる)。
 最近のカウンセリング本が主張するようにC-PTSD概念を人格障害の二次被害のような領域にまで敷衍するということは、例えば、対象関係論(あるいはコフート)の原因論でよく出てくる「非共感的な母親」の振る舞い等もC-PTSDを構成するひとつのトラウマ足りうるということになるであろうが、私としては、所詮、対象関係論とトラウマ派で別のルートで同じ山を登っているだけという感じを併せ持たなくはない。ただトラウマ派が新しいのは、戦争とか刑事事件とか極端なDVの被害事例から遡行するような形で、既存の精神疾患のカテゴライズを破壊しつつ、むしろその本質により直接に到達しうる場合があるかのように思わせるところだ(本当にそうであるかどうかは留保する)。
 トラウマ派の好感を持てるところは、必ずしも「セオリー」を重視していないところかもしれない。フロイトのエディプスコンプレックスにしろ対象関係論の○×ポジションとかにしろ、精神分析の中核には必ず何らかの人間の精神発達に対する(大それた)理論化への意志があった。それらは当初かなりバカバカしい部分も多かったかもしれないが、一応時代を経てそれなりには穏当な概念に修正されてはいった。しかしそれら膨大な努力はどこまで行っても、あるいは今なお、仮説でありある種の申し合わせにしか過ぎない。トラウマ派は症状の向う側にある人間性の本質的「構造」を軽々に想定しようとしない。彼らは症状の実際的な現れ方により注目するからだ。
 振り返れば、カーディナーの頃はまだ巨人フロイトの影響が強すぎてトラウマ派がささやかにしか独自色を出せないでいた感じがする。今となっては、戦場の地獄を語るのにフロイトの概念を利用せざるを得なかったのはなんともちぐはぐな印象を与える。また、ハーマンの主張によると、フロイトは保守的な時代背景により患者の近親姦被害の訴えを嘘と決めつけたりして、PTSD的なものに深入りしないような学問的立場を選んだとされ、その意味でもフロイト理論は間尺に合わないということになるだろう。


追記(2019/11/18):
 まだ内容的にもやもや。
 記憶が部分的に失われることは解離でも抑圧でも起こる症状のはずで、医療はどうしたって何らかの対処をそれにするわけで、広義の記憶回復療法は滅亡しようがないと思われる。おそらくほとんどの精神療法は記憶回復的な要素を持っている。ハーマンが若い頃行っていたのは催眠による記憶回復でこれは催眠療法の一種と表現すべきものでもあろう。いずれにせよ、治療過程で「蘇った」記憶に裁判での高い証拠能力が認められないのは当たり前で特に驚くに値しない。ある記憶が患者にとって激烈な負の意味をもつ場合に、その記憶を意識の俎上に載せ、苦痛を取り除くことで当人が回復するということが治療にとって重大なことなのであって、記憶の真実性はもともとそんなに重要じゃない。当人がそう信じ込むなり、無意識に創造するなりして出来上がったフィクションだとしても、それを梃子に症状が治れば問題ない。
 また治療過程で不作為に醸成されたストーリーと、復讐や金銭目的等で意識的に捏造されたそれでは、さらに別の話であろう。

 フェミニズムの件はYoutubeにあったハーマンのインタビュー動画でかなりそれらしいことを言っていた。そのような内容に触れた自著もあるようだ。社会運動と専門分野の橋渡しを公言する彼女は、例えば、政治的意図のために患者の記憶を誘導したのではないかという疑いを持たれても仕方がなかったかもしれない。あるいはそのような不透明性が論敵に利用された面もあったかもしれない。
 精神科医たちが毎日人々の悲惨な体験を聞かされて社会的な発言をしたくなる気持ちはわからなくもないが、そのやり方はかなり注意を要するのかもしれない。


追記2(2019/11/25):
 日本語版Wikipediaのハーマンの項目がひどいのは、要は、彼女の最大の功績である『複雑性PTSD』の発見について何も述べていないところだと思う。このところ読んでいる岡野憲一郎の『新外傷性精神障害』の中でも、ハーマンは現代における拡張PTSD概念の端緒として叙述されている。しかも、後世の検証の進み具合によっては、力動精神医学から外傷精神医学への転換点としての、より大きな功績者として認識される可能性を持っていると思う。
 知識の入り口でWikipediaを見る人は多いのかもしれないが、最初にあの記事を読んでもし人物を納得してしまったとすると不運としか言いようがない。催眠療法によって引き出された記憶が裁判の証拠として不十分であることは当たり前かつ些末であり、それによって彼女の学問的価値が毀損されるものではない。

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 最近身近な対人関係で長年の謎が解けたと感じるようなことがあり、なんとも言えない変な感じ。仮に謎が解けても現状に本質的な変化が現れるわけではないが、解釈に迷うような時間がなくなった感じだけはある。
 分かってみればしょうもないとも言えるのだが、なにが気づきを遠ざけていたのかと反省すると、相手の自己イメージをとりあえず尊重しようとする(誰にでもある)基本的な心の動きがネックになっていたかなと思う。しかし本人が自分はこうだと述べているのに明確な根拠もなくそれを否定することは簡単ではない。もっと早く気づきたかったけれど。

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 以前紹介したKernberg, Otto F. "Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"を優先順位低でホントにちびちび読み進めているのだが、内容的に面白くなってきてもどかしい。
 コフートも似たり寄ったりなのだが、カーンバーグは"total object relation"というようなことを結論じみた局面で主張する。これは、遡れば、早期の母子関係に於いて健全なコミュニケーションが発達に合わせ適切かつ網羅的に成就しているような状態であり、後には、異性関係などで相手と忌憚のない人間的な付き合いができることにつながる。
 私がこういったコンセプトに多少の懸念を持つのは、「正しい母子関係」としてある特定のフォーミュラを前提にしているようなニュアンスが付随するからということがある。どこかに母子関係の正しい形式があるとしても、それは誰がどのように証明するのか?また、コミュニケーションの全体性を強調する場合、ネガティヴな関係性もそこによく含まれてしまうのではないか?
 しかし、このところなんとなく考えていて、"total object relation"はもっと主観的なものでいいのだと、受け取り方の視座を変えつつある。要は当人が肯定的に"total"だと感じられればそれが"total"たりうるのだ。仮に、第三者から見て全然"total"じゃないように見えても。あまり厳密な規範性は想定しない方がいい。

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dsm5_p762.jpg DSM5の終盤(SECTION III)には人格障害に関する従来(SECTION II)とは違う診断モデルが紹介されている。説明によると未来に向けた仮の案という感じなのだが、わりとこれが面白い。大雑把に言えば、さまざまな人格障害を今までより統一した物差しで計ろうとする試みであり、人格障害診断全般に共通する基礎部分として提示されているのが表題の四要素なのである。
 私は以前紹介したカーンバーグの現実検討能力の定義をふとした日常においてそこそこ反芻してきたのだけど、最近は上記のDSM5内に書かれる人格機能の四要素を唱える(!?)ことも多い。
 この基礎部分の上に各人格障害の病理学的な細かな諸特性がのっかることになるのだが、これらはまたNegative Affectivity,Detachment,Antagonism,Disinhibition,Psychoticismの五領域におおまかに分類されることになっている。
 従来の単純箇条書き的な診断基準と意味内容が乖離するわけではなく、同じことを別の言い方で表現しているに過ぎないのだと思うが、診断の重複や曖昧さをできるだけ避けるように工夫されているのだと思う。このやりかたがそのまま次のDSM6に採用されるかどうかは分からないが、確かに判りやすいような気もする。ただ、設定された共通概念が具体例に対してそううまく(あるいは有意義に)機能するかどうかが問題かもしれない。

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 少しだけ以前より英語が上達している感じで、しかし多少開けた視界が美しいとは限らず、腹の立つことも少なくないのだが、日本人の弱い立場も思い知らされる。

 アメリカ人が政治の話を好むのは共通の話題がそれしか無いからだと思うが、ぼんやり一般人のコメントを追っていると名状しがたい違和感に苛まれる。政治と個人の距離が近すぎる。それは彼らが普段から政治的な危機と隣り合わせで生活していることを意味してもいると思う。

 アメリカ合衆国がネイティヴアメリカンが使いこなせず死蔵していた途轍もなく厖大なリソースを強奪した上に成り立った近代文明であるとの指摘はよくあるけど、現在の日本は二次的にその強奪のおこぼれに与っている国なのだ。他人事のような正義面は滑稽かもしれない。
 アメリカ合衆国という国は、夏の夜の樹液に誘われた雑多な生物の集合に似ている。(キリスト教を除いて)ほとんど何の共通点もないが、樹液が出ている分には彼らはひとつに統合されることを享受する。結果として形成された社会の多様性それ自体がアドヴァンテージだとは、私はあまり思っていない。アメリカのように多様になれば豊かになるというような考えは、因果を逆に捉えているのではないか。

 よく一般のアメリカ人はバカだという論調があるが、私はそんな感想を持っていない。分数や日本の位置を知らなくても彼らは生きて行ける。むしろ、軋轢の多い社会で他のことに知性を使わなければならないのであって、その中には比較的高度な(凡庸な日本人が普段考えもしない)抽象的判断が含まれていると思う。

 同時代としての日本社会のアドヴァンテージは平和で均質的であることだけではないか、と思ったりする。あとはほとんど全部負けてる。移民を入れるとそのアドヴァンテージも失われるのかもしれない。

 外交のディテールが一般人に分かるわけがないのだが、トランプのような自己愛的な人物に対しては話を合わせるような態度が共謀関係への入り口としてうまく機能すると思われ、総理大臣の対応の仕方は悪くなかったと思う。あまり卑屈になりすぎると良くないがぎりぎりのところで踏み越えずOKではなかったか。

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 ツイッターで何かを主張しようとしている人は大概どっかで聞いたような話でつまらない。自分の頭で考えようとしている人はほとんどいない。結局素材が勝ってる人だけがおもしろい気がするが、それも思い過ごしなのかもしれない。

 物事をなんでも直視できる人というのはとても孤独な人に違いない。逆に言えば親和的な関係に属している事がその人の眼を曇らせる。心地よい繭だから。

 明日は雨。

 みんな自分を買いかぶりすぎなのだ。だからおかしなことになる。

 多分今の状況だとCPUとケースさえあればもう一台PCを組めてしまうが、さすがにそれはどうなのか。

 父親が広島カープのファンで広子と名づけられたNYTの田淵広子だが、現在はなぜか気象・環境記者を自称している。タカタの元社員はなぜ田淵にリークしたのか。

 ポーズとしての反抗は依存のしるし。

 そういえば今日遠赤外線靴下というのを買った。エネルギーを放射しているのだろうか、未だに意味が分からない。セールだったので何でもよかった。

 我々の銀河系にある星の数(2000億)>人の脳細胞の数(1000億+)。

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 かなり以前に思いついたことなのだが、国会議員を選ぶ全国選挙の投票率が2%とか3%とか極めて低値だった場合に、残りの圧倒的多数で新憲法や議会や政府を作って天皇陛下のところに相談に行った場合、『じゃあそうしましょうか』と陛下がおっしゃる可能性は低くないと思う。
 最近つまらない選挙戦が始まったせいか、ツイッターとかで、もっともらしく『でも投票に行くべき』などとここぞとばかりに言い募る芸人(文化人含む)たちがいて目障りだったので、書いてみた。

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 悲しんだり落ち込んだりしている人に気を大きく持とうと言うのは罪のない励ましだけど、巨視的だったり微視的だったりすればするほど、認識は私たちの所与の感覚から離れてゆく。『宇宙の広さに比べればあなたの悩みなど無に等しい』と口走るとき、宇宙の広さは自明の認識のようだが、本当は実際の宇宙の広さなど誰にもイメージできない。逆にどんなものも極小の元素に還元されるにすぎないと主張するのもそれとそんなに変わらない。いずれにせよ極めて間接的かつ抽象的な認識があるだけだ。
 時々認識の縮尺を大きくしたり小さくしたりするのは、人の心にいい効果をもたらす面があるに違いない。登山なんかもそういうリフレッシュ効果を持っている気がする。下界を見下ろして些事に悩んでいる自分を相対化するわけである。
 しかし、人が何を妥当だと思うかは、普通はどうしても日常的な感覚から離れられないと思う。それを超越したような地点において、一時的でない認識の変革を促すことは、日常感覚を捨てさせようとすることとほぼ同義ではないかと思う。何かの修行で、抽象的なものをより確実視するように意識を逆転させるとかそんな話になりがちだ。
 そのような認識の無理なモード変更のようなこととは違い、欠けていた現実的な真実への認識が補われることで世界が変わって見えるということのほうが、現代的な覚醒かもしれない。ネットでは、かつて共同体が見たくないと思っていたりメディアが伝えたくないと思っていた情報も流され残ってゆく。人々は結局様々な真実に向き合わざるを得ない。
 最近'RED PILL'というフレーズを知ったが、覚醒はむしろ日常化していると思う。

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 ミシェル・フーコーは『言葉と物』において(部分的にせよ)要素主義のようなロジックをもちいて既存の枠組みを打ち破ろうとしている。わざと「木を見て森を見ない」ようにする戦略で、ほとんど無限に分割されうる意味や概念の莫大な多様性の中であれもこれもすべては比較不能ではないかというわけである。そのような態度は分類学について述べているときにも垣間見られたが、終章の最後に提示される「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅する」というモチーフが露骨に示していると思う。
 同性愛者として被差別的な時間を生きたとされるフーコーが、生物学上の突然変異や消えて行った種に注意を振り向けて巨大な連続性の存在を主張するとき、読む側としては危うさにドキドキしなくもない。すべてがそんなにも不備なく連続しているといったい誰が断言できるだろう。例えばラバが不妊の動物であることは種の境界の厳しさを示しているかもしれない。中間項が自在にあるとは到底思えない。
 この要素主義的ロジックは現在のLGBTを擁護する多様性の議論にも通底している。欧米の人文系の学部学科でフーコーを教えないところはまれに違いない。
 しかし、詭弁じみていると思わないではいられない。微細な点描(動)画を指差して「これは点の集まりです」とだけ言い張るのは、明らかに不当である。あるいは激しい化学反応を催す物質の組み合わせと無反応の組み合わせを同次元のバリエーションとしてのみ扱うのは、何か肝心のものを無視している。
 脱構築と言ってもパラダイムシフトと言ってもいいが、何らかの発見によって通念を支えていた土台が崩れ全体像が見直されることはあるだろう。同性愛者への理解が科学的に進むことはありうることだし、それによって社会的通念が見直されることもありうることだ。しかしその行く末は誰にも先取りできない。
 人は見たこともない究極の要素を想定してその側に立脚することは出来ない。
 進化と多様性の網状連続体から巨大な生命潮流の存在を感じるのは自由だとしても、それが思い過ごしでないとはいえない。
 同性愛が合理化されるのとは逆に、もし仮に、同性愛を「治療」することが(安価かつ無痛で)出来るようになった場合、彼らはその治療を受けないだろうか?

 私は多様性を否定したいわけではない。多様性を用いた詭弁を否定したいだけだ。まるで多様性を構成する差異が相互に無害であるかのような。

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 以前も書いたけど、京都の人は他人が邪魔なときに、その人に向かって細かく空咳をして散らそうとする習性があるように思う。特に中高年に多い(というか中高年のみ?)。
 聞えよがしの咳払い(「エヘン!」)とはまったく異なる。
 他人に向かって咳をするのはよくないことです。


 暇なときに段落単位でちびちび読むことにしている"Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"だが、序文やらなんやらは終わって一応本文には入っているのだが、のっけからスプリッティングで、医師に対する態度が極端から極端へ変化する患者が登場。解離とは違うので、+から-に振れても記憶は保たれていることが強調され、そのことは一般的な解釈なのだが、私は前にも書いたがスプリッティングはまた別の様態の記憶の不具合を含むのではないかという疑問を持っているので、何か手掛かりがないか多少期待しながら読み進めたい。私の疑問は、肯定的な評価をしている時に、過去に正反対の評価をしていたこと自体は憶えていても、正反対の評価を生み出していた内的・感情的な源みたいなものの記憶を忘れているのではないか、みたいなモチーフ。
 そのあたりはもはや「記憶」からアプローチすべきじゃないってだけかもしれないな。
 非常にのろのろ進んでゆく予定。であるがゆえのメモ。


 "either"は条件文においては「どちらか一方の」という意味しかもたない。"provided that~"は「~という条件において」という条件文(節)である。したがって、一般的に"either"には「どちらも」の意味も「どちらか一方の」の意味もあるため、日米和親条約は二つの解釈がありえる曖昧な文面なのであり、日本側はそこでうまく騙されたという説は、間違いではないかと思う。つまり、あれは一義的な英文なのである、たぶん。
 条約の原本かドラフトみたいなものがオランダ語でそこからの和訳が間違った(蘭学者はたくさんいたはずだが...)という情報もあるみたいだが、つきあわせて相手側の英語版を確認しないわけがないならそこでも間違ったことになり、むしろさらに不可解な気がしてくる。

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