思いつくままのブログ記事

 探していたカーンバーグの有名な論文がネット上にpdfであったので、リンクメモ。趣旨としては全体にカーンバーグがコフートを論難しているものなのだが、下に抜粋している箇所はその文脈とは直接は関係なく、今で言う心のレジリエンスの発生源に関するもので、個人的に印象に残ったため。

・Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
http://www.sakkyndig.com/psykologi/artvit/kernberg1974.pdf

The normal reaction to loss, abandonment, and failure is the reactivation of internalized sources of love and self-esteem, which are intimately linked with internalized object relations and reflect the protective function of what has been called "good internal objects."

Contrasting Viewpoints Regarding the Nature and Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personalities: A Preliminary Communication - Otto F. Kernberg, M.D.
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 コフート関連の日本人の研究者のネット上にある論文等を読んだりしていた。
 Overt&CovertのNPDの話や、森田正馬が扱った対人恐怖症に対する自己愛の関連付けなど、微妙な話題が多かった。森田正馬が傑出した人物であることは間違いないが、全知全能なわけでもないので、間違うことはあるだろう。
 Overt&Covertは無自覚型と過剰警戒型と言い換えてもいいだろうが、私は傷の様相あるいは程度による違いから来ているのではないかと憶測したりする。両者とも心のコアの弱さは本質として似ているのだが、Overtはそれに一応わりとちゃんとした発達上のシールドが付いているので社交性は阻害されないが、Covertはそのシールドすらないので自己として社会から距離をとらざるをえない感じ、だと思うがどうだろう。

 コフートの、カルチャースクールか何かの先生になって誇大感を癒していた症例は、読んだ当時も全く訴求しなかったが、あれが代償行為による解決だったのかもしれない。代償はある行為に対する過剰で不自然な意味づけを前提とするため、危険性をはらんでいる。それにあれは治療上の変容性内在化の失敗のはてだったような。
 ほどよく恵まれた子供は適切な愛に包まれながら現実への健全な幻滅の過程をたどることができる。つまり幼稚な誇大感を無理なくスムーズに脱ぎ捨ててゆくことができる。誇大感を代償行為によってごまかそうとするのではなく、やはり、そのように誇大感そのものの縮小を目指すことが本筋であるはずだ。
 インナーチャイルドを操作するような場合も、いつかの自分に振り向けられた誤った育児法を否定して理想モデルとすげ替えるよりも、その時の喪失によって持ち越された誇大感を、健康な自己愛によって今からでも当たり前の幻滅へと導いてやることのほうが本質的だと思われる。

 代償行為による解決は危うい。たいていどこかに無理が出る。飛行機遊び(実際に操縦する)にのめり込んで子供も家庭も放置してしまう父親がエラン・ゴロムの書籍に出てきたっけ。

 人は自ら祝福しつつ幻滅することができるはずだ。

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 以前、私がウィニコットの偽りの自己がうまく理解できなかったのは、支配-被支配関係の逆説性(支配する側も実は支配されている)にこだわったからだと思うが、その後、偽りの自己を生み出す状況がまったく不作為にも起こりうることが納得できて、理解はややましになったかと思う。
 しかし今になって、病的自己愛の世代間連鎖をめぐって、これは親も子も偽りの自己で生きているということなので、一周したような格好で支配-被支配関係が重要な要素でないわけではないと再び思い出すようになってきた。彼らは相互的に持ちつ持たれつのファンタジーを生きているからだ。
 私の間違いは、偽りの自己の発生と維持とをある程度混同していたことと、権力関係を偽りの自己の必要条件として過大評価したこと、に原因があったように思う。
 ただ、親側に作為なく子が偽りの自己を形成して、親がそれを本当の子だと誤認しているようなケースも気にかかる。

 Elan Golombが古い方の著作の最後の方で「私が47歳の時に~」とか言い始めて驚愕していた(ということはこの時点でそれ以上の年齢)。博士号も持ったカウンセラーなのに、中年以上になっても病的自己愛の親からの影響に悩んでいることになるわけで、落胆せざるを得なかった。しかもそれから23年後の著作(当人70歳以上?)でも、結論部で『別の生き方は見つからなかった』という趣旨のことを仄めかしており、もはや三つ子の魂百までの再確認か。
 ネット検索してみるのだが彼女の正確な年齢はよくわからない。


追記(2021/06/30):
 一般にNPD母は子に合わせることに何らかの支障がある。

 母親が自分とは非常に違った赤ん坊をもって見込みちがいをすることも本当におこる。赤ん坊が彼女よりもすばしっこかったりのろかったり、などである。このようにして、赤ん坊が求めているものと思ったことが実際はまちがっていたということがおこる。しかしながら、不健康や身のまわりからのストレスのために歪んでない限り、全体として母親は幼児の求めるものをかなりの確かさをもって知ろうとするし、さらに求められたものを好んで与えるのである。これが母親による育児のエッセンスである。
 "母親からうける育児"によって、幼児は独自の存在をもつことができ、存在の連続性とでも呼べるものを形成しはじめる。この存在の連続性を基礎にして、生得的な潜在力は次第におのおのの幼児のなかで芽を出しはじめる。育児が適切でないと存在の連続性を欠くために、幼児は真の意味での存在とはならない。その代わり、環境からの侵害に対する反応に根ざした人格をつくりあげるのである。
D・W・ウィニコット『情緒発達の精神分析理論』P54-55

 NPD母は基本的に侵入的でもある。

 母親は赤ん坊を彼女の個人的経験や感情に巻き込まない。彼女の赤ん坊は彼女が殺したくなるくらいまでに泣きわめくこともあるが、彼女はまったくいつもの配慮でもって赤ん坊を抱き上げ、復讐することはない―いや、したとしてもそれほどでもない。彼女は赤ん坊を彼女自身の衝動の犠牲者にすることを避けようとするのである。育児とは、治療することと同じで、個人の信頼度についての試練のようなものである。
北山修『錯覚と脱錯覚』P30引用 D・W・ウィニコット『子供と家族とまわりの世界』原書P87

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 愛着理論で言われる愛着形成の臨界期は生後半年から2歳位までらしいが、もっと広く見て、子供というものは、人間の精神や知性や認知などの基礎部分を築くためのかけがえのない時間を生きている存在だと言っていいだろうと思う。例えば母語の獲得などもそうで、先月だか寄り道的に読んだスティーブン・ピンカー『言語を生みだす本能』では、クレオールとピジンの比較をしながら、言語の習得の場合の臨界期について叙述していた。ピジンのように臨界期を過ぎてからの言語の習得は、相当な努力をしても、ぎこちないものにならざるを得ないようだった(あぁ、やっぱり...)。

 つまり、話は大雑把には単純なのだ。人間の神経系をつなぐシナプスは生後数ヶ月から猛烈に発達し始め、様々な情報を過剰に取り込んでゆくが、同時進行的に思春期の前くらいまで「刈り込み」のようなことも行われる。必要な情報と不必要な情報の取捨選択が並行して行われるわけだが、刈り込まれてシナプスの総量は思春期頃には落ち着き、低い第二のピークである25才頃を境に死ぬまで漸減してゆくことになる。そのように乳幼児期から思春期前期にかけて、意識的にか無意識的にか、試行錯誤しながら形成された神経系が、その人のその後の精神生活の基礎をなすと考えるのが普通だろうと思う。
 これは愛着パターンの愛着スタイルへの変化時期にも対応するだろう。神経系発達過程については愛着理論の岡田尊司も言及していた。
 必ずしも臨界期について述べているわけではないが、トラウマ派の著作として、数年前に邦訳で読んだ、ベッセル・ヴァン・デア・コーク の『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』も紹介しておく。
 よく大の大人の精神的な悩みを解くのに子供時代の話をするのはバカげていると主張する人がいるものだが、上記のように、もし傷が早期に形成されてしまえば基礎部分の不具合で後々までタタリがあるというわけなので、そのような作業が発生する場合があるのは別に異常ではない。さらに早期の傷が本人には自覚されていないケースも少なくないので、自分はまったく良好に育ったと思い込んでいても、詮索してみるとかなりの偏りが発見される場合もあるだろう。その上でのケースバイケースではあろう。
 以前のエントリーのPete Walkerが、「希望」としていた、成人後の心的努力による神経系の新生や上書き作用は、ピジン話者の生涯続くぎこちなさの中に、その儚さが象徴されているような気がする。過大な期待は持つべきではないかもしれない。ただ、根治ではなく、眼の前の社会や現実への適応のための細かい努力として捉えるなら意味があるのだろうか。

 Elan Golombの『Trapped in the Mirror』は現在終盤の17章あたりをノロノロ読んでいるのだが、これは1992年の出版で、アリス・ミラーの次の世代くらいのかなり昔の本であった。だから今から見て理論的に整理されてないと言うか、Elan個人の傾向も多少ある気がするが、あちこち話が飛んでノイジーに感じられるのだと思う。原因論についても理論的解釈についても治療論についてもほとんど踏み込んでいない。しかし内容が空疎なわけでは多分なく、多数のエピソードとその背後のElanによる意味付けに価値があるのだろうし、いずれにせよ手探り時代にはこういった冗漫さは避けられなかったと思う。それで最近、彼女の2015年出版の新しめの本を購入した。Elan Golomb『Unloved Again: Breaking Your Serial Addiction』だが、乗りかかった船と言うか、Elanの考えがその後どうなったか知りたいと思う。双方出版に20年以上ものラグがあるが、彼女の著作は基本的にこの二冊だけのようだ。

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 多分(遠いor近い?)将来にはミラーニューロンとかの自然科学の話とつながってくるのだろうが、メンタライゼーションは、私の主たる興味であるNPDの非共感性(ただ当人は他者の内面を自分に都合のいい想像で埋めてしまうので共感性が欠如しているという自覚はないと思うが)と地続きの概念でありネット上にもそのものズバリなテクストがある。

・Affect regulation and mentalization in narcissistic personality disorder
https://www.researchgate.net/publication/283928025_Affect_regulation_and_mentalization_in_narcissistic_personality_disorder

・Mentalization-Based Treatment for Pathological Narcissism
https://www.researchgate.net/publication/340010181_Mentalization-Based_Treatment_for_Pathological_Narcissism

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 C-PTSD(複雑性外傷後ストレス障害)の概念は未だに米国のDSMには採用されていないが、国連のWHOの疾病分類では去年6月に発表された最新のICD-11から採用されている。
CIMG3058.jpg ジュディス・ルイス・ハーマンが『心的外傷と回復 』(1992)の中で初めて提案したC-PTSDのモチーフは社会生活に潜む継続的暴力によるものだが、それを押し進めた、彼女の影響を受けた英米カウンセラーによる、なんらかの人格障害の近親者からの被害としてのC-PTSDという最近のアイデアは、かなりドラスティックな衝撃を与える(じゃあ何でもありじゃないか的な意味においても)。
 C-PTSD概念の提唱者であるハーマンは女性であり、主張の中でも多く家庭内での(性)暴力の被害を念頭に置いているが、以前紹介したスティーヴン・ジョゼフの『トラウマ後成長と回復』でBPDとPTSDをつなげようとしていた勢力がフェミニズム方面の人々であったのも、元締めである彼女の影響が予想されるような気がする。ただ、日本語版Wikipediaではハーマン自体がラディカルフェミニストとして紹介されてはいるのだが、ソースはいまいちよくわからなかった。また記憶回復療法は(効果はともかく、また催眠術を利用せず対話によって引き出すものも含めれば)フロイトから今に至る一般的な方法のひとつであり、記憶の不正確性や事後的な改変が起こることも新しい知見ではまったくないので、日本語版Wikipediaでのこれらをひとからげに「ハーマン一派」に帰責する説明は誤っているか言葉足らずである(当時の訴訟の成り行きを根拠に過分なことまで否定しているように受け取れる)。
 最近のカウンセリング本が主張するようにC-PTSD概念を人格障害の二次被害のような領域にまで敷衍するということは、例えば、対象関係論(あるいはコフート)の原因論でよく出てくる「非共感的な母親」の振る舞い等もC-PTSDを構成するひとつのトラウマ足りうるということになるであろうが、私としては、所詮、対象関係論とトラウマ派で別のルートで同じ山を登っているだけという感じを併せ持たなくはない。ただトラウマ派が新しいのは、戦争とか刑事事件とか極端なDVの被害事例から遡行するような形で、既存の精神疾患のカテゴライズを破壊しつつ、むしろその本質により直接に到達しうる場合があるかのように思わせるところだ(本当にそうであるかどうかは留保する)。
 トラウマ派の好感を持てるところは、必ずしも「セオリー」を重視していないところかもしれない。フロイトのエディプスコンプレックスにしろ対象関係論の○×ポジションとかにしろ、精神分析の中核には必ず何らかの人間の精神発達に対する(大それた)理論化への意志があった。それらは当初かなりバカバカしい部分も多かったかもしれないが、一応時代を経てそれなりには穏当な概念に修正されてはいった。しかしそれら膨大な努力はどこまで行っても、あるいは今なお、仮説でありある種の申し合わせにしか過ぎない。トラウマ派は症状の向う側にある人間性の本質的「構造」を軽々に想定しようとしない。彼らは症状の実際的な現れ方により注目するからだ。
 振り返れば、カーディナーの頃はまだ巨人フロイトの影響が強すぎてトラウマ派がささやかにしか独自色を出せないでいた感じがする。今となっては、戦場の地獄を語るのにフロイトの概念を利用せざるを得なかったのはなんともちぐはぐな印象を与える。また、ハーマンの主張によると、フロイトは保守的な時代背景により患者の近親姦被害の訴えを嘘と決めつけたりして、PTSD的なものに深入りしないような学問的立場を選んだとされ、その意味でもフロイト理論は間尺に合わないということになるだろう。


追記(2019/11/18):
 まだ内容的にもやもや。
 記憶が部分的に失われることは解離でも抑圧でも起こる症状のはずで、医療はどうしたって何らかの対処をそれにするわけで、広義の記憶回復療法は滅亡しようがないと思われる。おそらくほとんどの精神療法は記憶回復的な要素を持っている。ハーマンが若い頃行っていたのは催眠による記憶回復でこれは催眠療法の一種と表現すべきものでもあろう。いずれにせよ、治療過程で「蘇った」記憶に裁判での高い証拠能力が認められないのは当たり前で特に驚くに値しない。ある記憶が患者にとって激烈な負の意味をもつ場合に、その記憶を意識の俎上に載せ、苦痛を取り除くことで当人が回復するということが治療にとって重大なことなのであって、記憶の真実性はもともとそんなに重要じゃない。当人がそう信じ込むなり、無意識に創造するなりして出来上がったフィクションだとしても、それを梃子に症状が治れば問題ない。
 また治療過程で不作為に醸成されたストーリーと、復讐や金銭目的等で意識的に捏造されたそれでは、さらに別の話であろう。

 フェミニズムの件はYoutubeにあったハーマンのインタビュー動画でかなりそれらしいことを言っていた。社会運動と専門分野の橋渡しを公言する彼女は、例えば、政治的意図のために患者の記憶を誘導したのではないかという疑いを持たれても仕方がなかったかもしれない。あるいはそのような不透明性が論敵に利用された面もあったかもしれない。
 精神科医たちが毎日人々の悲惨な体験を聞かされて社会的な発言をしたくなる気持ちはわからなくもないが、そのやり方はかなり注意を要するのかもしれない。


追記2(2019/11/25):
 日本語版Wikipediaのハーマンの項目がひどいのは、要は、彼女の最大の功績である『複雑性PTSD』の発見について何も述べていないところだと思う。このところ読んでいる岡野憲一郎の『新外傷性精神障害』の中でも、ハーマンは現代における拡張PTSD概念の端緒として叙述されている。しかも、後世の検証の進み具合によっては、力動精神医学から外傷精神医学への転換点としての、より大きな功績者として認識される可能性を持っていると思う。
 知識の入り口でWikipediaを見る人は多いのかもしれないが、最初にあの記事を読んでもし人物を納得してしまったとすると不運としか言いようがない。催眠療法によって引き出された記憶が裁判の証拠として不十分であることは当たり前かつ些末であり、それによって彼女の学問的価値が毀損されるものではない。

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 最近身近な対人関係で長年の謎が解けたと感じるようなことがあり、なんとも言えない変な感じ。仮に謎が解けても現状に本質的な変化が現れるわけではないが、解釈に迷うような時間がなくなった感じだけはある。
 分かってみればしょうもないとも言えるのだが、なにが気づきを遠ざけていたのかと反省すると、相手の自己イメージをとりあえず尊重しようとする(誰にでもある)基本的な心の動きがネックになっていたかなと思う。しかし本人が自分はこうだと述べているのに明確な根拠もなくそれを否定することは簡単ではない。もっと早く気づきたかったけれど。

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 以前紹介したKernberg, Otto F. "Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"を優先順位低でホントにちびちび読み進めているのだが、内容的に面白くなってきてもどかしい。
 コフートも似たり寄ったりなのだが、カーンバーグは"total object relation"というようなことを結論じみた局面で主張する。これは、遡れば、早期の母子関係に於いて健全なコミュニケーションが発達に合わせ適切かつ網羅的に成就しているような状態であり、後には、異性関係などで相手と忌憚のない人間的な付き合いができることにつながる。
 私がこういったコンセプトに多少の懸念を持つのは、「正しい母子関係」としてある特定のフォーミュラを前提にしているようなニュアンスが付随するからということがある。どこかに母子関係の正しい形式があるとしても、それは誰がどのように証明するのか?また、コミュニケーションの全体性を強調する場合、ネガティヴな関係性もそこによく含まれてしまうのではないか?
 しかし、このところなんとなく考えていて、"total object relation"はもっと主観的なものでいいのだと、受け取り方の視座を変えつつある。要は当人が肯定的に"total"だと感じられればそれが"total"たりうるのだ。仮に、第三者から見て全然"total"じゃないように見えても。あまり厳密な規範性は想定しない方がいい。

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dsm5_p762.jpg DSM5の終盤(SECTION III)には人格障害に関する従来(SECTION II)とは違う診断モデルが紹介されている。説明によると未来に向けた仮の案という感じなのだが、わりとこれが面白い。大雑把に言えば、さまざまな人格障害を今までより統一した物差しで計ろうとする試みであり、人格障害診断全般に共通する基礎部分として提示されているのが表題の四要素なのである。
 私は以前紹介したカーンバーグの現実検討能力の定義をふとした日常においてそこそこ反芻してきたのだけど、最近は上記のDSM5内に書かれる人格機能の四要素を唱える(!?)ことも多い。
 この基礎部分の上に各人格障害の病理学的な細かな諸特性がのっかることになるのだが、これらはまたNegative Affectivity,Detachment,Antagonism,Disinhibition,Psychoticismの五領域におおまかに分類されることになっている。
 従来の単純箇条書き的な診断基準と意味内容が乖離するわけではなく、同じことを別の言い方で表現しているに過ぎないのだと思うが、診断の重複や曖昧さをできるだけ避けるように工夫されているのだと思う。このやりかたがそのまま次のDSM6に採用されるかどうかは分からないが、確かに判りやすいような気もする。ただ、設定された共通概念が具体例に対してそううまく(あるいは有意義に)機能するかどうかが問題かもしれない。

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 少しだけ以前より英語が上達している感じで、しかし多少開けた視界が美しいとは限らず、腹の立つことも少なくないのだが、日本人の弱い立場も思い知らされる。

 アメリカ人が政治の話を好むのは共通の話題がそれしか無いからだと思うが、ぼんやり一般人のコメントを追っていると名状しがたい違和感に苛まれる。政治と個人の距離が近すぎる。それは彼らが普段から政治的な危機と隣り合わせで生活していることを意味してもいると思う。

 アメリカ合衆国がネイティヴアメリカンが使いこなせず死蔵していた途轍もなく厖大なリソースを強奪した上に成り立った近代文明であるとの指摘はよくあるけど、現在の日本は二次的にその強奪のおこぼれに与っている国なのだ。他人事のような正義面は滑稽かもしれない。
 アメリカ合衆国という国は、夏の夜の樹液に誘われた雑多な生物の集合に似ている。(キリスト教を除いて)ほとんど何の共通点もないが、樹液が出ている分には彼らはひとつに統合されることを享受する。結果として形成された社会の多様性それ自体がアドヴァンテージだとは、私はあまり思っていない。アメリカのように多様になれば豊かになるというような考えは、因果を逆に捉えているのではないか。

 よく一般のアメリカ人はバカだという論調があるが、私はそんな感想を持っていない。分数や日本の位置を知らなくても彼らは生きて行ける。むしろ、軋轢の多い社会で他のことに知性を使わなければならないのであって、その中には比較的高度な(凡庸な日本人が普段考えもしない)抽象的判断が含まれていると思う。

 同時代としての日本社会のアドヴァンテージは平和で均質的であることだけではないか、と思ったりする。あとはほとんど全部負けてる。移民を入れるとそのアドヴァンテージも失われるのかもしれない。

 外交のディテールが一般人に分かるわけがないのだが、トランプのような自己愛的な人物に対しては話を合わせるような態度が共謀関係への入り口としてうまく機能すると思われ、総理大臣の対応の仕方は悪くなかったと思う。あまり卑屈になりすぎると良くないがぎりぎりのところで踏み越えずOKではなかったか。

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