思いつくままのブログ記事

 この数日寒の戻りらしく、僅かだが雪がちらついていた。

 ふと思い出したので。
 一ヶ月ほど前に皇居のお堀に入浴剤を投げ入れて皇宮警察に保護されたニコ生放送者がいたのだが、自己紹介に統合失調症の診断を下されていると書いていてあったり、現物と思われる障害者手帳を視聴者に提示したりしている人物だった。私はやや以前からこの放送者の存在を認識しており、犯行数日前位にランキングサイトの上位に食い込んでいる等異変に気付いたため、放送予定に片っ端から予約を入れたりしていた。そのタイムシフトはもう見れなくなっているけれど動画はネット上に今もある程度残っている。
 色々思うことはあれど、大したことは言えないのだが、お堀に入浴剤を投げ入れる前日だかの放送で何気ないが印象的なシーンがあった。放送者におそらくは注察妄想・追跡妄想が募ってきた辺り(当初は「公安が自分をマークしている」発言もまだ冗談めかした感じだったのだが、密度と真剣みがじわじわ増して行った)で、視聴者側が面白がってその妄想に話をあわせ始めるということがあった。ある意味妄想者に対するよくあるからかい方であるとは思えた。しかるに本人は玄妙なる薄ら笑いを浮かべたかと思うと、視聴者のわざとらしい追従から身を引き離すように口をつぐんでしまった。沈黙はしばらく続いた。重度だと葦原将軍のように妄想を肯定されて単純に受容する(あるいは周囲に肯定されようが否定されようが関係ない)場合もあるだろう。しかしこの放送者の情況はそれとは違っていた感じ。自分だけが(妄想内容の)真実を知っているはずという自負が、表層的な賛同から身を引き離させたのだろうか。少なくとも、まだある程度は虚実・自他の境界あるいは現実感覚が残っている感じだった。
 あの沈黙を分岐点としてその後のエスカレーションが始まったと思わないでもない。からかいによって自己の信念が妄想にすぎないかもしれないと予感された時、逸脱への衝迫がそれまでの収まり場所を失ったのではとも思う。
 不確かだが、放送者は皇宮警察に保護された後、措置入院になったとの情報があるようだ。

 日常的に見られる防衛機制のようなものをめぐっても多少似たようなことはあり得るのだろうか。何でもいいが例えば、他者の言説の曖昧さをことさら自分に有利に曲解・断定してしまうなどは、ネットでも一般社会でもよく見られる。この段階を病的な妄想などとはまず言うべきでなく、よくある防衛機制として「合理化」「価値の引き下げ」「否認」等々自ら(or自らの自尊心)が傷つかないように行われているという程度に受け取るべきだと思うが、それらの認識の歪みに対して敢えてどこまでも話をあわせてやると対象はどうなるのだろう。もしその人が当たり前に最低限の健全さを持っているなら、どこかでは気付いて(つまりあの放送者とは違い)現実の方へと還ってゆく、ということになるのだろうか。

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 サイトを勝手にRSS化する汎用のサービスはすでにlivedoorがやっているのだが、一般的な規約が書かれてあるだけで具体的な法的解釈を近傍に探してもまったく見当たらない。仕方ないので関連を探ってぶらぶら検索していると、Googleキャッシュの法的地位に関する古い裁判記事を見つけた。なんだか懐かしい。合法判断の根拠としてISPの一時キャッシュ(たいてい負荷分散目的のはずなのに)との類似性を挙げているが、改めてかなりの違和感が・・・。
 総務省の法令データは開放されているし、自分専用で運用しているものも問題ないと思うが、一般サイトを編集処理して経由公開すると本来は何らかの法的な問題が生じるはず。
 ネット上の情報は全体が共有物なのであり、パスワード保護など積極的に防御されていなければどうしようとすべて自由、という考え方ももう一方であるかもしれない。が、これも自分としていまいちしっくりこない。

 やや風邪気味でパブロン。

 PCスピーカー新しくしたら音を大きくしても音割れしなくなった。実際大音量にする機会はそうないのだけれど、古いのはたまに大きくすると音割れでずっと気になっていた。

 農業と奴隷制のことばかり考えながら読んだ「反哲学史」もそろそろ終わりそう。

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 住んでいるマンションの地デジ工事は3月末までには行われるようだ。

 姪が第二志望校には受かった由。

 このところ(去年の夏に英語ことわざ辞典を面白く読んでいた頃からか)、ブログにほとんど読書メモを書かなくなったわけだが、私のことなので無論読書していないわけではない(今も木田元の「反哲学史」を読んでいる)。書かなくなった理由は自分でもよくは分からない。私は元々書きながら物事を考える癖があり、このブログの特に読書メモはそういう意味での遊び場だったのだが、簡単に答えが出ないような自前の主題に囚われている状態だと、思考の写し絵として書かれたものは、読み物としてほとんど眼も当てられない代物になる。基本的なまとまりがなくなって、有意な結論は更になく、事後の加筆修正も多くなり、とても他人に供する読み物にはならなくなる。ありがちなレビューのように内容だけ小器用にまとめることは気恥ずかしく初めからするつもりもない。霧が晴れたら再開するかもしれない。

 とは言え、このブログのアクセス一位はずっと英語版Wikipediaの項目を和訳した「英文拙訳」カテゴリである。

 ネット発の括りでは最も有名な日本人の一人であると思われる西村博之氏は、「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」などと言っておきながら、2ちゃんねるに書かれたDHCに関する虚偽情報を鵜呑みにして自身のメルマガで拡散してしまい、DHCに訴えられ敗訴したわけだが、いまだにこの決め台詞を使う人がいてげんなりする。実際には、ネットであれなんであれ、本当の意味で嘘を嘘であると見抜くことはそう簡単なことではない。と言うか、ただネットを使うのにそんな高度なディシプリンは元来必須ではない。単に留保的態度で臨んでいればだいたい事足りるはず。パーソナリティーにやや反社会的な傾向があるかもしれない西村氏においては、単に「だますほうよりだまされるほうが悪い」と言いたかっただけなのかもしれないけれど。

 正月にsocket命令関連で個人的なブレークスルーがあったので、この初級レベルperlをもってして何か作ってみたいが、あんまりアイデアが思いつかない。RSSに非対応のサイトを勝手にRSS化するサービスがあり、問題ないなら自分も個別的にやってみようかとも思うのだが、肝心の対象サイトが選定できない。興味あるサイトは大体RSS対応している感じか。

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 平生のくだけた人付き合いにおいて、間違えても相手をだましてもまったく恥じたり悔やんだりしない人がいる。ただし、だますことに直接的な快感が生じている感じではない。自己評価(self-esteem)がきわめて高いのだろうが、それだけでなく、自己の美意識に倫理的感情が(正にも負にも)殆ど入り込んでいないような感じ。自己愛型として、理系の微妙な秀才タイプに多い気がする。

 先日ニコニコ生放送を観ていたら、ジャーナリストもどきみたいな一般放送者の人が「上杉隆氏の自由報道協会は第二の利権団体を目指しているに過ぎないのではないか?」という趣旨のことを口走って、世の中似たような疑念を持つ人がいるものだとちょっと感動した。また、上杉氏自身がどこかで「日本記者クラブ批判は自分のライフワーク」というようなことを言っていたと思うが、これもなんだか危うい物言いだ。例えば早晩記者クラブが潰れるようだとライフワークには当然なりえない。早晩潰したいと思っていてもそうだろう。

 最近買ったスニーカーのくるぶし付近が当たって痛い。

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