思いつくままのブログ記事

 人間あんまり自分の間違いに注目しすぎないほうが精神衛生上いいとは思うのだが、特に強い間違いというのは、何か別のストレスがかかっている状況で起こることが多いような気がする。あっぷあっぷというかそんな感じの時期に、ほとんど根底的な次元から間違えてしまう、といったようなこと。
 体力的な負荷をかけると、四則演算のような単純な計算でもミスが発生・増加するというような調査があったような気がするし、鬱病の発症でIQが低下するといったような情報も耳にしたような気がする。
 しかし...。
 私はあるストレスのかかった悪い時期にどこか意図的に錯誤するというようなことがあった気がする。きわめて投げやりの高じた状態というか、錯誤を許す錯誤。表現しづらい。
 錯誤は、直接の被害が特にないとしても、自分への理解者を遠ざける効果をもたらすと思う。なんであれ整合的にふるまえていれば、他者の理解につながるのだ。
 錯誤は孤独なのである。


 ホントはコフートの悪文について書こうと思っていたのだが気が乗らない。英語なのに主語と述語が異様に離れているとか、なんでもかんでも一文にまとめようとしすぎるとか、挿入句が多用されるばかりでなく多次元の入れ子構造になることも珍しくないとか、諸々そういったことなのだが、著者が意識の流れをそのまま垂れ流すような書き方というか、そこからコフートの過剰な自己中心性と彼のフロイト派からの離反にまでつなげてみようと思ったのだが、今書いたからもういい。


追記(2017/08/18):
 錯誤の孤独というのは、現実をうまく捉えられないことの暗闇にはまり込むことなのだろう。人は結局、否が応でも生の現実に依拠せざるをえない。交通事故のよく起こる交差点で「みんなが間違えている」ことは、本質的な慰めにはならない。たしかに人が錯誤すること自体の現実性というものがあるとしても、それは行為の主体から次元をずらした別の認識にすぎない。何らかの規則性(と思しきもの)が発見されたとしても同様である。
 ひいては、同じ宗教に入ったり何かのコンサートで幻想を共有したりすることも、本来、各人の孤独の証明にすぎないかもしれない。「みんな現実がわからない」と同調してみてもそんなものは理解ではない。
 常に現実に正対しうる者だけが。しかし、これだと最終的にカントの「物自体」の超越性みたいな話になってしまうかもしれない。もともと誰も群盲以上にはなれないって?

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 先日、去年も同時期に行った建物内の同じ場所で迷って、そのもやもやが尾を引いている。
 要は、通路を間違えたと思い込んで四つ角で曲がったらそれ自体が間違いだったということなのだが(つまり一番最初のイメージで正しくそのまま直進してよかった)、一応すぐに間違えたことに気づいて引き返したのだが、恐るべきことにというか、しばらくして去年も同じ場所でほとんど同じように間違えたことを思い出し、それであれこれ原因を考えてしまった。はっきりした結論が出るわけもないのだが、とにかくまた来年行くようなことがあれば間違えないようにしたい。ホントは少し伏線のようなものがあるのだが省略する。
 フロイトは誤謬の中に過大な真実があると信じたが、今は一般的ではない。しかし彼の視角が全否定されたというわけでもないかもしれない。


 ツイッターのリストを整理して、日本人のジャーナリストっぽい人々を解除した。彼らのツイートは結局ほとんど意味がないということに気付いたため。ただし英語圏のジャーナリストはそのまま残している。彼らは私にとってはサンプル的な価値があると思う。
 レガシーメディアに対抗するネット勢力はすでに組織化が進んでおり、ニュースツイートはそれらを含めたメディア系に頼っていたほうがいい気がする。個別のジャーナリストたちは好きなことを気ままに書き込んでいるという点で素人と特に変わらない。


 コルベアの笑いは代弁者の笑いだ。彼が惹き起こすのは、彼の主張や皮肉に対し同調を表す笑いであると思う。驚きが弱く、したがって爆笑があんまりない(トランプが『あいつは面白くない』と指摘したのもこのあたりにある程度由来する面もあるかもしれない)。彼は大きな声を出せない人々(特に優れた能力を持たない白人とかアフリカ系アメリカ人とか)の本音をおおっぴらに音声化する役割を担っていると思う。観客は笑うことで立場に同調し助力する。
 私は個人が発信できるネット時代の進行によって、「代弁者」はほとんど必要なくなるのではないかと思っていたところがある。これから先どうなるか分からないが、対抗的なアレックス・ジョンズにしろ、今のところ必ずしもそうなっていないようだ。
 人々は依然として象徴としての代弁者を欲している。Googleがはじき出す検索順位一位はそのような象徴足りえない。
 しかし本当に、どうしてもそれは「誰か」である必要があるだろうか?

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 平凡な勝者は公正な手続きを経由していると、特段の理由もなければ前提されがちだが、世の中には悪意によるとも限らず他者を陥れたり破壊してしまう人たちがおり、現実をそう単純ではないものにしている。
 評価者の主観的な裁量に負うところが大きいもの、例えば、人物評価なども社会のあらゆるところで出てくる試練だが、それが最低限の善意と公平さによってなされるという保証はとくにない。ある権威付けられた採点者が「娯楽的」に誰かを陥れようと実際とはかけ離れたあるいは無関係な評価を公の文書にして、当人あるいは他者がそれを覆すことが不可能に近いシチュエーションというものはありうる。まさかそんなひどいことはしないだろうと思うようなことでもする人はいる(具体例を想起しているわけだが)。なにか変な裁定がなされたと感じる傍観者もいるかもしれないが、陥れられた人は平和裏に葬り去られる。
 留年者を出しまくる病的に厳しい大学教授の話も聞いたことがあるが、制度上彼自身がチェックの対象でもあるはずなのでまだ完全にタガが外れた状態ではないかもしれない。
 変わった人はたまにいるのであり、その辺は運だ、と主張することはできるだろうしある程度は同意するが、もう一方で、人の善意やコモンセンスを信頼し(すぎ)たゆるいシステムやルールの隙間には常に人の暴力性がうごめく余地があるのだと思える。
 被害者に特段の落ち度があるわけでもなく、人格的な攻撃誘発性があるわけでもなく、また好き嫌いの感情すら関係がなく、人生が破壊されるのだとしたら不合理この上ないが、裁く法律があるわけでもない。
 社会はストレスと暴力に満ちている。
 さらに人間の獣性が蔓延する。
 天網恢々疎ニシテ漏ラス。
 不用意に現状を美化すべきではない。


 しばらく前だが、ウォーキングの終着の公園から帰ろうとしたら子供用の柔らかいラグビーボールが転がってきて、声をかけてきたひとりの5・6歳位の男の子に投げ返してあげた。紡錘形のボールはワンバウンドしたものの、男の子はうまく受取り、まるで誰かからパスを受けたかのように即座にキックしてその方向に走り出した。彼なりのイメージがあったのだろうか。
 ありふれた出来事に違いないが、私はなんとなくハッとした。不規則に跳ねるラグビーボールが、その時膠着していた私の思考を打ち砕いたようだった。
 元気なかわいらしい男の子だった。

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 相手を擁護するような立場で物事を解釈しようとしていると、真実が曇る場合がある。最近私はわりかし客観的に思い返せるようになったことがあり、特に基本情報が変わったわけでもないのに、そこそこ眼からうろこな感じになっている。

 北朝鮮に喜び組というのがあるらしいが、あれは近所で餓死していても日々喜んでいるのだろうか。それとも彼女たちはある程度隔離されて生活しているのかな。朝鮮語はわからないけど、喜ばせ組ではなく喜び組であるところにポイントがあるような気がする。何があっても大喜び。

 ブログと真剣に向き合いたくない私だが、サーバ維持との関係があるとしても、こんなに続けるとは思っていなかった。早めにやめておくべきだったかもしれない。

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 最近ハードディスクの隅にあった古い論文をなんとなく読み返したのだが、これは虐待による海馬(短期記憶を司る)の萎縮が原因となって、解離性同一性障害(人格Aによる記憶が人格Bに共有されない)が起こるのではないかと立論しているものなわけなのだけど、もしかすると、スプリッティングもある種の記憶障害なのではないかと空想したりした。
 スプリッティングの対象関係論的な解釈として、ある成長段階(乳児期)において何らかの不手際があったために二極的な状況を統合し得なかった、みたいなことがあるのかもしれないが、そのような段階をうまくやり過ごしたにも拘らずむしろ積極的な暴力によって後年破壊されたという事態がありうるかどうか。
 人間の主体や恣意性というものは、特殊な状況下を除いて、「二極」の間に存するような気もする。虐待者が破壊しようとする標的がまさに相手の主体なのだとしたら、それはそれで一定の辻褄が合うというかある種の見取り図が描ける気もする。
 しかし、仮に、こういったことの自然科学的な原因が突き止められたとしても、それは希望なのだろうか。

 コフートの三部作の邦題は「自己の分析」「自己の修復」「自己の治癒」ということになっているが、実は3つめの原題は'HOW DOES ANALYSIS CURE?'で必ずしも『自己』シリーズにはなっていない。コフートは結局変容性内在化を達成しえなかったとされる。
 無責任にあとづけるなら、私は「自己の創造」と言ってみたい気もする。


追記(2017/06/10):
 コフート本の邦題の「自己の修復」を「自己の回復」と書いていたので訂正。私はこの本は英語で読んでいたため邦題がうろ覚えでした。原題は'The Restoration of the Self'。

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 トラウマを負った人に確率論を教えると治るという主張が巷間ありうるかもしれない。
 「あなたの遭遇した悲劇はとても珍しいのだから再び起こる確率はゼロに近いのであり未来に向けて恐怖することは不合理なことです」というような説得。こういう説得がなぜ無力なのかという時に、彼らは悲劇が再現される可能性がゼロでないこと自体が恐怖なのだという説明(or「無意識」概念の導入)もありうるだろうが、鈍感な人にはピンと来ないおそれもある。
 それで、誰にでもわかる例えとして親の影響があるかもしれない。ある固有の性質を持った親の影響も固有であり、だから確率論的にとても珍しいとも言えるが、にもかかわらず(!?)、子は一生親の影響下に生きてゆく面がある。もし理性により自己を完全に相対化できるのならば、親子のくびきからすっかり解き放たれるはずだが、一般にどうもそうはならない(→イマーゴ)。
 だから、どういう親の子として生まれ育つかということはトラウマティックな出来事だといえなくもないと思うが、多くはポジティヴな意味を帯びているということ(おそらくは)。


 フォント関連で参っていた。パソコンやタブレットやスマホなど各端末のデフォルトフォントは違うが、CSSで揃えられるのは、その高さであり幅ではない。いや、その高さすら怪しい気がする(実体参照とか)。どうしたものか。
 色んな端末でサイトがどう見えているかシュミレートしますよ的なWEBサービスが微妙なのは、各OSのデフォルトフォントの違いまで踏み込めないから。せいぜい各ブラウザの仕様の違いを表現するに過ぎない。
http://browsershots.org/

 ノートPCもデスクトップPCもおととし一旦Windows10にしているので、その時Edgeは何度も試用したはずなのだが、なんだか記憶していたことと違う動作があり、ミステリー。私の勘違いかEdgeの変更か、アップグレードの様式の変更ということもありうる。???
 いずれにせよ、思い違いがあってまた凹んでいる。

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 前回'aim-inhibition'項目の短い文章の和訳に思いの外手こずって、何度も書きなおしてしまった。
 動物行動学者のローレンツが、「攻撃しないことが愛情対象であるということ」みたいなことを書いてたと思うけど、そのことを人間に置き換えたという意味においても'aim-inhibition'の価値は重い。しかし人間の場合動物よりもっと高度で、言語的意識も絡むのであり、そういう面では'aim-inhibition'は弁証法の「止揚」にも似ている。
 内的に未成熟な親は悲劇を生みがちで、人生上のストレスの掛かる地点で適切に'aim-inhibition'できるかどうかが岐路になると思われる。相手が一人の他者であり、物でも道具でもペットでも自分でもないということ。

 『沈黙』観に行かないとなぁ。あんまり気乗りしていない理由は以前観たメル・ギブソンの『パッション』の見せ場(?)であるイエスのムチ打ち長回しシーンの通俗感というかアメリカ映画の払底感というか「こんなことして客寄せしてなんになんの?」みたいな落胆が記憶の隅に残っているからということもあると思う。スコセッシは芸術家としてのレベルがもう少し上のはずだが、時代の流れで、拷問シーンで過度にセンセーショナリズムを追ってるとかだとやだなぁ。
 いちおうまだ猶予はあるはず...。

 最近またきなこヨーグルト食べまくり。

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 肉まん一袋(四個入りかなんか)食べた日以来ずっと調子悪かった。賞味期限が迫っていたのとチューブからしがもう少しで使いきりだったシチュエーションで、わりと無理して食べたらあとがどんより。大食すると覿面に体調が悪くなるので(たぶん母もそうではないかと思う)、太りたくても太れない。
 飽食系のユーチューバーとかをどこか羨ましく見ている時があり、これはまだまだ自他の曖昧さが取れていない証拠であろうか。反省したい。

 このところのWindowsタスクスケジューラとの戦いが、ようやく終止符を打った感じで喜ばしい。一般にアップグレードしたWin10から元に戻すと様々な不具合が出るようだが、タスクスケジューラ問題はその中でもひどいもののひとつかもしれない。

 アマゾンに書いたレビューが反映されない。外部URLを記載していて『掲載できませんメール』が来たのだが、外部URLを削除して昨日再送したら今度はなんの音沙汰もない。タイトルを変えるべきだったかもしれない。星は3つで褒めてはいないが特に貶してるわけでもない。他にもなにか問題が???


 ウィトゲンシュタインは、人間は本当には「無限」を概念化し得ないというようなことを言ったと思うが、このことは人のナルシシズムの有り様と深く関わっているかもしれない。あるいは、人の持つ全能感の、現実とのズレを宿命として表現しているかもしれない。
 ナルシシスト、あるいは彼らに対する補足的ナルシシストたち(ファンとか信奉者みたいな人々)は、対象を全能視することがままある気がする。全能とはある種の無限であり、対象が有限的な存在者であることに本来いささかの疑義もないのであるから、これはシンプルな矛盾である。

 むしろ人間は何かを無限として概念化したがる存在なのかもしれない。あるいは未知と無限を混同しがちな存在なのかもしれない。未知からあらわになるのは恐らく「現実」以外の何者でもなく、例えばネットが露わにした新現実に旧式の夢(無限)が通用しなくなって、右も左も(政治的なやつ)七転八倒ということになったりする、のかどうか。

 いわゆる「無知の知」は、"I know that I know nothing."みたいなことが本来らしく、これだと「私は私が何も知らないことを知(ってい)る」ということになる。これ自体パラドクスなわけだが、自明性への懐疑に繋がるような退行は避けることにして、人が知と無知のあわいで揺れ動きながら生きているという健全ぽい解釈を選択することにしてみよう。また、そうして、知はいつかゆっくりと現実によりついていくのだ、と思いたい。

 「万人の万人に対する闘争」はトマス・ホッブスの言う人の自然状態のことだが、私は最近これは人の未来像なのかもしれないと思い直している。未開の人は弱くてむしろ支えあわなければ生きてゆけない。市民社会の暴徒のような状態も特殊な理由で一時的に社会秩序から逸脱したものでしかない。むしろ万人の万人に対する闘争が公正な(!?)ルールにのっとって行われるのが未来、てなんか寒々しい感じもするな。

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 こないだちょうど投票一ヶ月前にトランプの大きめのスキャンダルが発覚したりして、ヒラリー側の情報収集能力の高さ、背後組織の巨大さが推察される。まだまだ隠し玉を持ってそうだけど。
 トランプがNPDかどうかはわからないが、仮にそうだとして、あれだけの羞恥ストレスにも耐えうるところを見ていると、マリー・イルゴイエンヌが紹介していたベトナム帰還兵で最もストレス耐性があったのはナルシシスト達だったという調査結果が私としては思い起こされる。耐性(鈍感さ)の強いポイントが個々偏るとは思うが、BPDなどとは根底において違うところか。
 アメリカの共和党って、この大統領選が終わったらどうなるんでしょう。まさか無くなるわけではないだろうけど、相当にドラスティックな改革が避けられないのでは。
 この長かったから騒ぎもそろそろ終了。トランプはある種の犠牲者かも(??)。


 フランスキリスト教徒の世俗化の話は、エマニュエル・トッドの『シャルリとは誰か?』を読んでいる限りでは微妙な気もしたが、ネットでいろんな人の情報を見ているとそれなりに深刻なのかもしれないと思えてきた。書籍内の統計の日曜に教会に行かなくなったくらいではまだだと思っていたが、特にネットにあった最近のフランスの子供があんまり洗礼を受けていないという情報の方がインパクトあった。これはカソリックだけの現象ではなく、プロテスタントのドイツでも似たように世俗化が進行しているらしいので新旧転向するとかの逃げ場もない感じかも。
 しかし異教徒から見れば、先鋭化したフランス自称無神論者たちすら「曖昧なクリスチャン」として括り得るかもしれない。なんというか彼らは教会(文化)を居場所としなくなっただけで本当の無神論者とはどこか違うような感じがする。納得しがたいものが残る。例えば彼らは欧州言語に潜んだキリスト教的な価値観を拒絶するだろうか。もし完全にそんなことをしたら会話できなくなるのでは?
 『シャルリとは誰か?』は客観的っぽい統計資料を駆使して構成されてはいるものの、それらの解釈においてかなり誘導的な面があり、『エマニュエル・トッドとは誰か?』という印象をもたざるを得なかった。ユダヤ人の子孫であるフランス国民のトッドは、フランス旧来のカソリシズムを嫌悪している感じが色濃く、フランス在来大衆がカソリックを捨てることが当たり前みたいな前提で、やや強い言葉を使えば「カソリック差別」あるいは「キリスト教差別」のような兆候を窺わせなくはない。彼が擁護するイスラム教に対する批判は意図的に抑えられ、ユダヤ教に関してはちょろっと触れられているだけにすぎない。しかしフランスのカソリシズムには情熱的なまでに辛辣なのである。彼が新作して振り回す「ゾンビ・カソリシズム」という着想自体が、「かくれユダヤ教徒」のような彼にとって切実かもしれないモチーフと重なって来て、こちらとしてはこの語が出てくるたびにげんなり感に駆られる。
 普遍的精神としてのカソリシズムのはずなのに、その傾向の強かった地域からより多く、移民排除の右翼政党に投票されたという事実は、私にはちっとも驚くべきポイントには思われなかった。フランス人のどこが秀でて平等主義的だったろう(ロマ差別とか今でもあるんでしょ?)。彼らの欺瞞が生々しく彼ら自身の眼に晒されたかもしれないが、おそらく外国人から見たら白けた感じではないか。
 結論付近に日本からしたらそう大したことない国民の高齢化問題を出してるのも、微妙すぎる。要は移民を入れないと若い働き手がいないという、身も蓋もない話であるが、日本の少子高齢化なんか完全に手遅れだけど移民論議は低調であるし、現に小国でも(必ずしも一次資源に頼らず)豊かな国が存在することとの兼ね合いも特に述べられない。
 一般フランス人より屈折しまくったトッド自身の差別意識が薄皮一枚の向こうにうごめいてる読後感。

・フランス人らしく暮らせ=移民に要求-サルコジ前大統領 (2016/09/19)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016092000807&g=int


 中上健次が柄谷行人との対談で挙げていた『被差別者は差別する』との言は中上氏の発案だったろうか。雰囲気的に誰かの警句の援用だった気もする。
 父と行った和歌山市の郷土資料館みたいなところで、中上健次のコーナーが追いやられたような隅っこの方にぽつんとあり、展示内容よりそれが印象深かった。
 先日、近所で何度か見かけたことのある黒人青年が跛を引くようにマンション前を歩いていて、彼とすれ違おうとした幼女が咄嗟に「こわい~」と後ろの母親に駆け戻るのを目撃した。ただし幼女は終始笑顔であって本当の恐慌状態ではあきらかにない。やや演技的というべきか。再度のすれ違いざま、母親に抱きとめられている幼女に黒人青年は優しくハイタッチを促し、幼女は笑顔のままそれに応えて掌を合わせ、黒人青年は通り過ぎた。
 一定のなごやかさのうちに、黒人青年が何を思ったかわからない。
 恐怖心が差別の一因であるかどうか分からないが、もしかするとそうかもしれない。
 怯えるにしても怯え方が、あるいは恐怖するにも(差別を避ける)正しい作法がある、という非難はありうるかもしれない。人の原初的な反応の中に真実があるのではなく、健全で成熟した大人の理性の内にそれがある?
 しかし例えば、ある社会内集団があり彼らの犯罪率の平均が彼ら以外より顕著に高い場合に、その集団に属することだけがわかっているある個人に対しまったく警戒しないでいるのは、大人でも自然ではないように思える。積極的な攻撃や排除のような具体的行動に結びつけば露骨だろうが、初対面から親和性をもって応ずるケースと比較すれば、避けたり警戒するだけでもすでに受動的な差別の発露だと言っていいだろう。果たしてこの種の(ほとんど不可避的な)差別を人類から消せるものだろうか?(元々白人のみだった地域に一人黒人が転入してきたら白人たちが一斉に転出してしまった事例を、トッドが出していたが、ここまで行くと受動的でも「露骨」に違いないが)
 恐怖心は、誰にでも認知の歪みの基本要素である「過剰な一般化」や「結論への性急な飛躍」をもたらしうるが、これは突き抜けるとかなりな状態になる。認知行動療法の書籍では、統合失調症者の「妄想」は煎じ詰めれば恐怖心に由来する、と述べている。これは特に奇異な解釈ではないと思われる。前半は患者の妄想を理詰めで突き崩し少なくとも疑義を抱かせるくらいのところまでは持っていける等と述べながら、後半では妄想それ自体が彼らの心のバランスを保つ役割をしているかもしれず、それを無碍に取り去ることが果たして本当にいいことなのか、と自問しだす、ある意味ありがちな展開の精神療法の著作だったが、人格の次元に話が及んだ時、ナルシシストの本質として自己憐憫(これも「過剰な一般化」や「結論への性急な飛躍」の一様態であろう)を挙げていたのも印象に残る。ギャバードによるナルシシストのサブタイプの内で「無自覚型」の場合(トランプがそうであるかどうか?)は、全面的な自己肯定感が常態としてあるわけだが、果たしてどういう形で自己憐憫が意識化されうるだろう。
 コフートが著書で出していた有名なX氏の症例では、母が父を常に侮蔑しつつX氏を理想化して過大な期待を寄せる家庭で、X氏は早期以降における父の理想化プロセスに失敗したため、初源的な誇大感が健全な変遷としての幻滅を得られずに人格に定着してしまう。本来なら理想化した父を一旦内面に取り入れた上で現実的で健全な幻滅が訪れるが、X氏は理想化がキリストとかまるで非現実的な別物に入り込んでしまっているためどこまでも軟着陸できない。X氏は誇大感による様々な雑念の下、現実には、一意的に目指していた「救済者」への道に挫折する。社交を避け孤立と寂しさの中で生きていると叙述され、こちらは「過剰警戒型」に相当するだろうか。
 ナルシシストの自己憐憫がどういった形で本人に意識化されているかのバリエーションは、ギャバードによる「無自覚型」と「過剰警戒型」の分かれ目みたいなことと深く関わると思われるが、各ナルシシストの現実社会での自己実現の度合いと、元々負っている傷の深さとが、絡み合いながら原因を構成しているに違いない。過剰警戒型のように他者の評価に怯える要請がない無自覚型が恐怖するのは、もはや自らの死や有限性そのもの以外には考えにくい。ナルシシスト共通の誇大感の原風景が、無自覚型の方にこそ生々しく鮮明に表れているとも言えよう。ただし寿命は絶対に超克できず、子孫を同一視してその人生の可能性を自分の誇大感ために利用しようとするケースもあるだろうが、彼らが社会的な成功を得られるかどうか以前に、自立の過程で他者性が発現せざるを得ないしそうでなければ健全でないのである種の瓦解が必ず待っている。結局一般的に人が羨むことをすべてやりつくすみたいな「水平的な無限」を希求することから出られないわけで、それも死によって中断させられる。
 どんぐりの背丈のように有限でしかありえない自己を全能視して周りから「特化」しているナルシシストが、その本質においてすでに差別的なのは言うまでもない。したがって彼らが始終体から差別を湧出するのは極めて本来的な姿だと思われる。
 ナルシシストはわかりやすい一例というだけで、(恐怖心に縁取られた)認知の歪みを持っているのが彼らだけであろうはずはない。むしろ、ほとんどすべての人が大なり小なりあるいは千差万別の歪みを持っていて、そのことを超克できない。
 社会的な力関係の中で、何かのきっかけが差別の連鎖を惹き起こすこともあるのかもしれない。強者から弱者へ、差別が時に暴力を伴って伝わるが、差別されている弱者が今度は差別する側に回る可能性を忘れてはならない。被差別者は聖者でも何でもない。仮に聖者のような人がいたとしても、その個人だけが聖者なのだ。一見可哀想な被差別者が、むしろ差別と暴力を撒き散らすスプリンクラーになるおそれがある。その責任が彼ら以外にあるという彼らの主張も許してはならない。

追記(2016/11/07):
 記憶違い等をやや補正。


 なんか珍しく3日がかりでたらたら書いてしまった。
 風邪がなおってきたかもしれない。

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 私は去年から一貫してヒラリー・クリントンが次の米国大統領になると予測しているけれど、彼女がいい大統領(あるいはアメリカ合衆国のいい時代を統治する大統領)になるとはあんまり思っていない。彼女を政治的に支持しているわけでも別にない。単に状況的に彼女だろうと、おそらく多くの凡庸なアメリカ人のようになんとなく予感しているに過ぎない。

 CBSは元々やや民主党寄りらしくスティーブン・コルベアも個人的にそんな感じで、レイトショーはクリントン上げ&トランプ下げを胸焼けがするほどにしつこく繰り返している。コメディアンが常に反権力でいなければならないわけではないだろうが、あれほど露骨に態度を鮮明にしてしまっているコルベアはいざ実際にヒラリー政権が始まったら(その蓋然性はかなり高いわけだが)どういう言論的ポジションをとる予定なのか訝しく思える。

 ヒラリーの背後には民主党を支持する素朴な民衆の大部分とアメリカ巨大資本の大部分が付いている。あと反トランプ勢力も。負けようがない。

 A wolf in ewe's clothing?


 デジャブのようだが、マーティン・スコセッシの『沈黙』は今年11月公開予定らしい。まる一年当初の予定より遅れた感じ。資金難を訴える記事もあったが、もとよりアカデミー賞狙いなので、中途半端にずれたアカデミー賞年度初めの公開で印象を薄れさせたくないみたいな感じの記事も眼にした気がする。どうしたって年末公開がタイムリーみたい。
 薬物中毒の噂もある窪塚洋介が筆頭脇役のキチジロー役らしいけれど、諸々ちゃんと出来ているのか心配。

 たぶんBivi二条で観ることになると思い、先日ムビチケのサイトで買い方を眺めていた。座席予約はオンライン前提で、これは利便性は高まってるんだろうけどユーザーの間口はあきらかに狭まっている気がする。オンラインじゃない人は同額でカード(or紙の前売り券)を買っても当日座席指定で必然的に隅に追いやられるシステム?なんでこんなやり方なんだろう。オフライン組もムビチケカードを買う時点で店員の操作する端末経由で座席予約できるようにすればいいのに。
 近年のヒット作品がアニメ中心とか若年層向けに偏ってるのはこれが一因じゃないのか。デモグラフィック的に高齢者が映画館に集まるインセンティヴは低くないはずだと思うのに、オフライン層切り捨てでは仮にアニメが多少伸びたとしても頭打ちになるに決まってる。あと前売りの割引率のようなものもムビチケシステムになってから低下しているらしい。


【追記】2016/09/04:
 訂正。
 座席指定の「お座席指定チケット」は鑑賞日当日だけではなくて二日前から前売り券と交換できるらしい。一応多少の猶予はあることにはなる。
http://help.tohotheater.jp/faq/show/119?back=front%2Fcategory%3Ashow&category_id=63&sort=sort_access&sort_order=desc


【追記2】2016/09/13:
 日本の公開時期がアメリカとはずれて、2017年になるみたいだ。最初にこのエントリーを書いた時はそこのところどうなるのかよくわからなかった。
 まだまだだぁ。

窪塚洋介&浅野忠信&小松菜奈らも出演!M・スコセッシ最新作『沈黙』公開決定


【追記3】2016/09/29:
 またまた情報が変更。
 下記英国メディアの記事の文意としては、2017年アカデミー賞の権利取得のため(アメリカで)今年12月23日に限定公開して、翌年本格公開するみたい。要はまたずれ込んだ。このエントリーの最初の11月公開の情報はGoogleによる(映画タイトルを検索すると公開時期が表示される)ものから引いたと思う。
 それにしても本作は制作でのトラブル多発から始まって相当ドタバタしている。まだまだわからない、かも。

Martin Scorsese's Silence will open in time for awards run


 最近英語学習が文法に回帰して文法書みたいなものを幾つか読んでるんだけど、"sun"に定冠詞がつく理由についてネイティヴと予備校教師でぜんぜん違う解釈を与えていてげんなり。前者は、我々の太陽は宇宙にたくさんある太陽(恒星)のうちのひとつだからtheがつくと述べ、後者は単に太陽は唯一無二だからtheがつくなどと説明。
 しかし双方ともその解釈の出典はない。
 Sigh.

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