思いつくままのブログ記事

 肉まん一袋(四個入りかなんか)食べた日以来ずっと調子悪かった。賞味期限が迫っていたのとチューブからしがもう少しで使いきりだったシチュエーションで、わりと無理して食べたらあとがどんより。大食すると覿面に体調が悪くなるので(たぶん母もそうではないかと思う)、太りたくても太れない。
 飽食系のユーチューバーとかをどこか羨ましく見ている時があり、これはまだまだ自他の曖昧さが取れていない証拠であろうか。反省したい。

 このところのWindowsタスクスケジューラとの戦いが、ようやく終止符を打った感じで喜ばしい。一般にアップグレードしたWin10から元に戻すと様々な不具合が出るようだが、タスクスケジューラ問題はその中でもひどいもののひとつかもしれない。

 アマゾンに書いたレビューが反映されない。外部URLを記載していて『掲載できませんメール』が来たのだが、外部URLを削除して昨日再送したら今度はなんの音沙汰もない。タイトルを変えるべきだったかもしれない。星は3つで褒めてはいないが特に貶してるわけでもない。他にもなにか問題が???


 ウィトゲンシュタインは、人間は本当には「無限」を概念化し得ないというようなことを言ったと思うが、このことは人のナルシシズムの有り様と深く関わっているかもしれない。あるいは、人の持つ全能感の、現実とのズレを宿命として表現しているかもしれない。
 ナルシシスト、あるいは彼らに対する補足的ナルシシストたち(ファンとか信奉者みたいな人々)は、対象を全能視することがままある気がする。全能とはある種の無限であり、対象が有限的な存在者であることに本来いささかの疑義もないのであるから、これはシンプルな矛盾である。

 むしろ人間は何かを無限として概念化したがる存在なのかもしれない。あるいは未知と無限を混同しがちな存在なのかもしれない。未知からあらわになるのは恐らく「現実」以外の何者でもなく、例えばネットが露わにした新現実に旧式の夢(無限)が通用しなくなって、右も左も(政治的なやつ)七転八倒ということになったりする、のかどうか。

 いわゆる「無知の知」は、"I know that I know nothing."みたいなことが本来らしく、これだと「私は私が何も知らないことを知(ってい)る」ということになる。これ自体パラドクスなわけだが、自明性への懐疑に繋がるような退行は避けることにして、人が知と無知のあわいで揺れ動きながら生きているという健全ぽい解釈を選択することにしてみよう。また、そうして、知はいつかゆっくりと現実によりついていくのだ、と思いたい。

 「万人の万人に対する闘争」はトマス・ホッブスの言う人の自然状態のことだが、私は最近これは人の未来像なのかもしれないと思い直している。未開の人は弱くてむしろ支えあわなければ生きてゆけない。市民社会の暴徒のような状態も特殊な理由で一時的に社会秩序から逸脱したものでしかない。むしろ万人の万人に対する闘争が公正な(!?)ルールにのっとって行われるのが未来、てなんか寒々しい感じもするな。

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 こないだちょうど投票一ヶ月前にトランプの大きめのスキャンダルが発覚したりして、ヒラリー側の情報収集能力の高さ、背後組織の巨大さが推察される。まだまだ隠し玉を持ってそうだけど。
 トランプがNPDかどうかはわからないが、仮にそうだとして、あれだけの羞恥ストレスにも耐えうるところを見ていると、マリー・イルゴイエンヌが紹介していたベトナム帰還兵で最もストレス耐性があったのはナルシシスト達だったという調査結果が私としては思い起こされる。耐性(鈍感さ)の強いポイントが個々偏るとは思うが、BPDなどとは根底において違うところか。
 アメリカの共和党って、この大統領選が終わったらどうなるんでしょう。まさか無くなるわけではないだろうけど、相当にドラスティックな改革が避けられないのでは。
 この長かったから騒ぎもそろそろ終了。トランプはある種の犠牲者かも(??)。


 フランスキリスト教徒の世俗化の話は、エマニュエル・トッドの『シャルリとは誰か?』を読んでいる限りでは微妙な気もしたが、ネットでいろんな人の情報を見ているとそれなりに深刻なのかもしれないと思えてきた。書籍内の統計の日曜に教会に行かなくなったくらいではまだだと思っていたが、特にネットにあった最近のフランスの子供があんまり洗礼を受けていないという情報の方がインパクトあった。これはカソリックだけの現象ではなく、プロテスタントのドイツでも似たように世俗化が進行しているらしいので新旧転向するとかの逃げ場もない感じかも。
 しかし異教徒から見れば、先鋭化したフランス自称無神論者たちすら「曖昧なクリスチャン」として括り得るかもしれない。なんというか彼らは教会(文化)を居場所としなくなっただけで本当の無神論者とはどこか違うような感じがする。納得しがたいものが残る。例えば彼らは欧州言語に潜んだキリスト教的な価値観を拒絶するだろうか。もし完全にそんなことをしたら会話できなくなるのでは?
 『シャルリとは誰か?』は客観的っぽい統計資料を駆使して構成されてはいるものの、それらの解釈においてかなり誘導的な面があり、『エマニュエル・トッドとは誰か?』という印象をもたざるを得なかった。ユダヤ人の子孫であるフランス国民のトッドは、フランス旧来のカソリシズムを嫌悪している感じが色濃く、フランス在来大衆がカソリックを捨てることが当たり前みたいな前提で、やや強い言葉を使えば「カソリック差別」あるいは「キリスト教差別」のような兆候を窺わせなくはない。彼が擁護するイスラム教に対する批判は意図的に抑えられ、ユダヤ教に関してはちょろっと触れられているだけにすぎない。しかしフランスのカソリシズムには情熱的なまでに辛辣なのである。彼が新作して振り回す「ゾンビ・カソリシズム」という着想自体が、「かくれユダヤ教徒」のような彼にとって切実かもしれないモチーフと重なって来て、こちらとしてはこの語が出てくるたびにげんなり感に駆られる。
 普遍的精神としてのカソリシズムのはずなのに、その傾向の強かった地域からより多く、移民排除の右翼政党に投票されたという事実は、私にはちっとも驚くべきポイントには思われなかった。フランス人のどこが秀でて平等主義的だったろう(ロマ差別とか今でもあるんでしょ?)。彼らの欺瞞が生々しく彼ら自身の眼に晒されたかもしれないが、おそらく外国人から見たら白けた感じではないか。
 結論付近に日本からしたらそう大したことない国民の高齢化問題を出してるのも、微妙すぎる。要は移民を入れないと若い働き手がいないという、身も蓋もない話であるが、日本の少子高齢化なんか完全に手遅れだけど移民論議は低調であるし、現に小国でも(必ずしも一次資源に頼らず)豊かな国が存在することとの兼ね合いも特に述べられない。
 一般フランス人より屈折しまくったトッド自身の差別意識が薄皮一枚の向こうにうごめいてる読後感。

・フランス人らしく暮らせ=移民に要求-サルコジ前大統領 (2016/09/19)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016092000807&g=int


 中上健次が柄谷行人との対談で挙げていた『被差別者は差別する』との言は中上氏の発案だったろうか。雰囲気的に誰かの警句の援用だった気もする。
 父と行った和歌山市の郷土資料館みたいなところで、中上健次のコーナーが追いやられたような隅っこの方にぽつんとあり、展示内容よりそれが印象深かった。
 先日、近所で何度か見かけたことのある黒人青年が跛を引くようにマンション前を歩いていて、彼とすれ違おうとした幼女が咄嗟に「こわい~」と後ろの母親に駆け戻るのを目撃した。ただし幼女は終始笑顔であって本当の恐慌状態ではあきらかにない。やや演技的というべきか。再度のすれ違いざま、母親に抱きとめられている幼女に黒人青年は優しくハイタッチを促し、幼女は笑顔のままそれに応えて掌を合わせ、黒人青年は通り過ぎた。
 一定のなごやかさのうちに、黒人青年が何を思ったかわからない。
 恐怖心が差別の一因であるかどうか分からないが、もしかするとそうかもしれない。
 怯えるにしても怯え方が、あるいは恐怖するにも(差別を避ける)正しい作法がある、という非難はありうるかもしれない。人の原初的な反応の中に真実があるのではなく、健全で成熟した大人の理性の内にそれがある?
 しかし例えば、ある社会内集団があり彼らの犯罪率の平均が彼ら以外より顕著に高い場合に、その集団に属することだけがわかっているある個人に対しまったく警戒しないでいるのは、大人でも自然ではないように思える。積極的な攻撃や排除のような具体的行動に結びつけば露骨だろうが、初対面から親和性をもって応ずるケースと比較すれば、避けたり警戒するだけでもすでに受動的な差別の発露だと言っていいだろう。果たしてこの種の(ほとんど不可避的な)差別を人類から消せるものだろうか?(元々白人のみだった地域に一人黒人が転入してきたら白人たちが一斉に転出してしまった事例を、トッドが出していたが、ここまで行くと受動的でも「露骨」に違いないが)
 恐怖心は、誰にでも認知の歪みの基本要素である「過剰な一般化」や「結論への性急な飛躍」をもたらしうるが、これは突き抜けるとかなりな状態になる。認知行動療法の書籍では、統合失調症者の「妄想」は煎じ詰めれば恐怖心に由来する、と述べている。これは特に奇異な解釈ではないと思われる。前半は患者の妄想を理詰めで突き崩し少なくとも疑義を抱かせるくらいのところまでは持っていける等と述べながら、後半では妄想それ自体が彼らの心のバランスを保つ役割をしているかもしれず、それを無碍に取り去ることが果たして本当にいいことなのか、と自問しだす、ある意味ありがちな展開の精神療法の著作だったが、人格の次元に話が及んだ時、ナルシシストの本質として自己憐憫(これも「過剰な一般化」や「結論への性急な飛躍」の一様態であろう)を挙げていたのも印象に残る。ギャバードによるナルシシストのサブタイプの内で「無自覚型」の場合(トランプがそうであるかどうか?)は、全面的な自己肯定感が常態としてあるわけだが、果たしてどういう形で自己憐憫が意識化されうるだろう。
 コフートが著書で出していた有名なX氏の症例では、母が父を常に侮蔑しつつX氏を理想化して過大な期待を寄せる家庭で、X氏は早期以降における父の理想化プロセスに失敗したため、初源的な誇大感が健全な変遷としての幻滅を得られずに人格に定着してしまう。本来なら理想化した父を一旦内面に取り入れた上で現実的で健全な幻滅が訪れるが、X氏は理想化がキリストとかまるで非現実的な別物に入り込んでしまっているためどこまでも軟着陸できない。X氏は誇大感による様々な雑念の下、現実には、一意的に目指していた「救済者」への道に挫折する。社交を避け孤立と寂しさの中で生きていると叙述され、こちらは「過剰警戒型」に相当するだろうか。
 ナルシシストの自己憐憫がどういった形で本人に意識化されているかのバリエーションは、ギャバードによる「無自覚型」と「過剰警戒型」の分かれ目みたいなことと深く関わると思われるが、各ナルシシストの現実社会での自己実現の度合いと、元々負っている傷の深さとが、絡み合いながら原因を構成しているに違いない。過剰警戒型のように他者の評価に怯える要請がない無自覚型が恐怖するのは、もはや自らの死や有限性そのもの以外には考えにくい。ナルシシスト共通の誇大感の原風景が、無自覚型の方にこそ生々しく鮮明に表れているとも言えよう。ただし寿命は絶対に超克できず、子孫を同一視してその人生の可能性を自分の誇大感ために利用しようとするケースもあるだろうが、彼らが社会的な成功を得られるかどうか以前に、自立の過程で他者性が発現せざるを得ないしそうでなければ健全でないのである種の瓦解が必ず待っている。結局一般的に人が羨むことをすべてやりつくすみたいな「水平的な無限」を希求することから出られないわけで、それも死によって中断させられる。
 どんぐりの背丈のように有限でしかありえない自己を全能視して周りから「特化」しているナルシシストが、その本質においてすでに差別的なのは言うまでもない。したがって彼らが始終体から差別を湧出するのは極めて本来的な姿だと思われる。
 ナルシシストはわかりやすい一例というだけで、(恐怖心に縁取られた)認知の歪みを持っているのが彼らだけであろうはずはない。むしろ、ほとんどすべての人が大なり小なりあるいは千差万別の歪みを持っていて、そのことを超克できない。
 社会的な力関係の中で、何かのきっかけが差別の連鎖を惹き起こすこともあるのかもしれない。強者から弱者へ、差別が時に暴力を伴って伝わるが、差別されている弱者が今度は差別する側に回る可能性を忘れてはならない。被差別者は聖者でも何でもない。仮に聖者のような人がいたとしても、その個人だけが聖者なのだ。一見可哀想な被差別者が、むしろ差別と暴力を撒き散らすスプリンクラーになるおそれがある。その責任が彼ら以外にあるという彼らの主張も許してはならない。

追記(2016/11/07):
 記憶違い等をやや補正。


 なんか珍しく3日がかりでたらたら書いてしまった。
 風邪がなおってきたかもしれない。

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 私は去年から一貫してヒラリー・クリントンが次の米国大統領になると予測しているけれど、彼女がいい大統領(あるいはアメリカ合衆国のいい時代を統治する大統領)になるとはあんまり思っていない。彼女を政治的に支持しているわけでも別にない。単に状況的に彼女だろうと、おそらく多くの凡庸なアメリカ人のようになんとなく予感しているに過ぎない。

 CBSは元々やや民主党寄りらしくスティーブン・コルベアも個人的にそんな感じで、レイトショーはクリントン上げ&トランプ下げを胸焼けがするほどにしつこく繰り返している。コメディアンが常に反権力でいなければならないわけではないだろうが、あれほど露骨に態度を鮮明にしてしまっているコルベアはいざ実際にヒラリー政権が始まったら(その蓋然性はかなり高いわけだが)どういう言論的ポジションをとる予定なのか訝しく思える。

 ヒラリーの背後には民主党を支持する素朴な民衆の大部分とアメリカ巨大資本の大部分が付いている。あと反トランプ勢力も。負けようがない。

 A wolf in ewe's clothing?


 デジャブのようだが、マーティン・スコセッシの『沈黙』は今年11月公開予定らしい。まる一年当初の予定より遅れた感じ。資金難を訴える記事もあったが、もとよりアカデミー賞狙いなので、中途半端にずれたアカデミー賞年度初めの公開で印象を薄れさせたくないみたいな感じの記事も眼にした気がする。どうしたって年末公開がタイムリーみたい。
 薬物中毒の噂もある窪塚洋介が筆頭脇役のキチジロー役らしいけれど、諸々ちゃんと出来ているのか心配。

 たぶんBivi二条で観ることになると思い、先日ムビチケのサイトで買い方を眺めていた。座席予約はオンライン前提で、これは利便性は高まってるんだろうけどユーザーの間口はあきらかに狭まっている気がする。オンラインじゃない人は同額でカード(or紙の前売り券)を買っても当日座席指定で必然的に隅に追いやられるシステム?なんでこんなやり方なんだろう。オフライン組もムビチケカードを買う時点で店員の操作する端末経由で座席予約できるようにすればいいのに。
 近年のヒット作品がアニメ中心とか若年層向けに偏ってるのはこれが一因じゃないのか。デモグラフィック的に高齢者が映画館に集まるインセンティヴは低くないはずだと思うのに、オフライン層切り捨てでは仮にアニメが多少伸びたとしても頭打ちになるに決まってる。あと前売りの割引率のようなものもムビチケシステムになってから低下しているらしい。


【追記】2016/09/04:
 訂正。
 座席指定の「お座席指定チケット」は鑑賞日当日だけではなくて二日前から前売り券と交換できるらしい。一応多少の猶予はあることにはなる。
http://help.tohotheater.jp/faq/show/119?back=front%2Fcategory%3Ashow&category_id=63&sort=sort_access&sort_order=desc


【追記2】2016/09/13:
 日本の公開時期がアメリカとはずれて、2017年になるみたいだ。最初にこのエントリーを書いた時はそこのところどうなるのかよくわからなかった。
 まだまだだぁ。

窪塚洋介&浅野忠信&小松菜奈らも出演!M・スコセッシ最新作『沈黙』公開決定


【追記3】2016/09/29:
 またまた情報が変更。
 下記英国メディアの記事の文意としては、2017年アカデミー賞の権利取得のため(アメリカで)今年12月23日に限定公開して、翌年本格公開するみたい。要はまたずれ込んだ。このエントリーの最初の11月公開の情報はGoogleによる(映画タイトルを検索すると公開時期が表示される)ものから引いたと思う。
 それにしても本作は制作でのトラブル多発から始まって相当ドタバタしている。まだまだわからない、かも。

Martin Scorsese's Silence will open in time for awards run


 最近英語学習が文法に回帰して文法書みたいなものを幾つか読んでるんだけど、"sun"に定冠詞がつく理由についてネイティヴと予備校教師でぜんぜん違う解釈を与えていてげんなり。前者は、我々の太陽は宇宙にたくさんある太陽(恒星)のうちのひとつだからtheがつくと述べ、後者は単に太陽は唯一無二だからtheがつくなどと説明。
 しかし双方ともその解釈の出典はない。
 Sigh.

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 アメリカの人気コメディアンのスティーブン・コルベアの英表記はSteven ColberとかではなくStephen Colbertらしく、かなり変わっている気がする。本人はフランス系だとうそぶくこともあるようだが本当はアイルランド系らしく、それにしても発音に比して何だかよくわからない綴りだ。しかしStevenにせよStephenにせよ、この感じの名前は新約聖書の最初の殉教者であるステパノにちなんでいる可能性が高いのではないかと思う。
 ステパノはギリシャ語が話される地域で、そこに住むユダヤ人を倫理的に非難する長い演説をぶった終わりに、開けた空におわす神の右側にイエスが立っているという主旨の禁句を言って(使徒8ー56)、人々を恐慌状態に陥れ激憤させる。そののち死刑に処せられる。
 人が自分の名前の含意にどれだけ引きずられるかというのは、顕在意識と潜在意識の中間みたいな話でかなりよくわからないわけだけれど、今のスティーブン・コルベアを一躍有名にしたのは、2006年当時大統領任期真っ只中だったジョージ・W・ブッシュのほんの眼の前で彼を批判した(おちょくった)事件であり、このことが聖人ステパノの所行といくらかなりとも重なってこなくもない気がするのは私だけであろうか。
 彼の演説の皮肉やジョークをすべて理解できる人がどれだけいるか分からないが、上のリンクの動画は字幕もついているので設定して読みながら視聴したけれど、私はほとんど自信がない。ただ、印象に強く残るのはブッシュJr.の本を読まない習慣を褒め殺している箇所だ。本は英語ではもちろん"book"だが、これを先頭大文字にしただけで聖書の意味になる。そうでなくても、ブッシュJr.が『本を読まない』ということは、単に勉強ぎらいとかそんなことだけ意味するのではない。それは聖書を読まないという意味を包含すると思う。
 ブッシュJr.を眼前でねちねち皮肉りつづけるコルベアの落ち着き払った態度は、肝が据わっていると表現するか、芸人としての野心に満ちていると表現するか、そのいずれもかもしれないが、少なくとも信仰の炎が一定の寄与をしていたのではないかと憶測する。


追記(2016/10/30):
 このエントリーを書いた時は、福音派(聖書原理主義)に支持されるブッシュ自体が本を読まないということに笑いの潜在ポイントがあるのかなとぼんやり思っていたのだが、一方のコルベアはカソリックらしくて、一般にカソリックは個人的な解釈を避けるために頻繁には聖書を読まないみたいなので、自分を棚に上げてあてこするのはやや不自然なことかもしれない、と最近気付いた。まぁ、コルベアがカソリックであることを知っている人はこの演説の時点ではほとんどいないに違いないので微妙だけど。よくわからない。
 このエントリーは半分(以上)冗談の深読みだけど、改めて英語圏の文化的背景を把握するのは並大抵じゃないなと。

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 私が補助教材みたいにさせてもらっている、NHK実践ビジネス英語をディクテーション(口述筆記)している複数ブログを見比べて、各々わりと実力差があったことに最近気づいた。"revel in"が"rebel in"なわけないなぁ、文脈からして。いつものところをわりかし信頼していたので今回気づいてショック。
 私自身もう少し気合を入れたい。姉の水準には追いつけないだろうけども。


 アメリカ大統領選は表面的には騒いでるわけだけど、今回はほとんど無風なのではないかと私は勝手に思っている。"occupy wall street"とかアメリカ社会が言いはじめた頃以来、大きな流れとして左傾化して(ただし個別の利益誘導は共和党の議員の方がうまいかもしれないので議会の構成となると別口だけど)久しいので、要は今回民主党の推薦を勝ち得た人物が次の大統領なのだ。民主党内でサンダースがヒラリーに勝つとは思えないわけで、だとしたらそれでもうなにもない。もはや基盤からの見直しを迫られている風の共和党側のトランプにしても老後のお遊びとして安心して暴言を吐いていられよう??


 スティーブンコルベアは彼自身がコメディアンとしてどれだけおもしろいかは微妙な気がするけど(もともと私は芸人で笑うことはほとんどないけど)、多少は何を言っているかわかりはじめた私として単にああいう番組をおもしろく感じる段階なのだろうと思う。
 お気に入り登録しばらくは続きそう。


 DOSBOX上で動かしていたDAGGERFALLは傍系のクエストでイベントが発生しない不具合があるようだったのだが、発売当時から非常にバグの多いゲームだったらしく、これでは無償公開の意味も微妙な気がする。暇な時に英語の訓練かたがたわずかずつでもやろうかなと思っていたのだが、ちょっとそれすら成立しない感じ。
 なんというかゲーマーは少なからず『先端技術』を体験しておもしろさと混同している場合があるのではないかと改めて思ったりした。鼠を退治することそれ自体にそんなにわくわくするわけではないかもしれず、3D処理がどうとか当時の技術レベルにおける新味がある種の目くらましになっていたのではないか。そしてそれは現在も同様の枠組みとして持ち越されているのではないか。
 当時の(今の?)「新しさ」の中に込められていたかもしれない無限の広がりは、あとから見なおすと魔法のとけた何かの残骸でしかない。「本当に価値のあるもの」ばかりが価値ではないかもしれないけれど、誰もいつまでも生きられるわけではないのだし、いや...。


 ラッセルのロジカルタイプは生活感覚にも合致してわかりやすいわけだけど、各次元設定の根拠をハードに問いはじめると無限後退に陥るらしい。ロジカルタイプに限らず人間が概念化しているものはすべて根拠を問いはじめるといつかは答えられなくなるので、特に珍しくはないが、ある特異点を見つけようとしている営為が無限後退に陥るところに面白みがあるのかもしれない。
 公理が公理であることのハードな証明も、たぶん無限後退に陥る。


 歴史上の有名な(文系)哲学者がそんじょそこらのただの変人ではないか、ただの変人なのかは、今や微妙なところなのかもしれない。なんだかわけもなくキルケゴールの「反復」を読み返したい気分になってきたけど、いやいや、オライリーのJavascriptを読まなくては!

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 私は最近Linux版のFirefoxでネットを見る機会が多いんだけど、レイアウトが微妙にずれていたりして、WEBデザインて大変だと思わずにいられない。IEのバグや独自規格がこの界隈でよく喧伝されるけど、Linux版のFirefoxもなかなか。同じFirefoxなのにLinux各ディストリビューションで表示が違ったりする。

 なんかネット閲覧の指向がまた変わり始めた感。個人放送の視聴とかかなり辛くなってきたかも。そのうちまた風向きが変わるかもしれないけど、誰もが警戒過剰な感じで相当つまらない。その人が素地をありのままに出しているような感じの頃がよかった。

 とはいえ、15日にオライリーのJavascript(百科事典並の厚さ)を買ったので、それを読んでいる。ネットそのものから離れる感じでは当分ないな。

 体調そんなによくはないが、活動量はあんがい低くない。

 人々がある現実に対し(たまたま)共通的な反応をすることは成就されたコミュニケーションだろうか?
 ロジックの同一性を担保してるのは「現実」に他ならない。たぶん人の意識はロジックの同一性を担保できたりはしない。
 他者の主体性の不在からその思考を出発させるウィトゲンシュタインは、メンタルヘルス分野のいくつかの典型を候補として想起させるが、最終的には現実に寄り添う方向を選んでいることが彼の凡百とは違うところだ。

 先月また性懲りもなく不完全性定理の参考書に挑戦して無残に弾き返された感があったのだが、その後自分なりにこれの何に違和感を抱いてきたのか省みていた。たぶん、この定理が過分に特権的な断定を含んでいるように思えるからだと思う。『ある公理が無矛盾なら証明も反証もできない命題が存在する、かどうかは人間には断定できない』としたいのが私の情緒なのである。自ら与えた前提の強度を過信しているように見えることの違和感と言うべきか。ずっと初めの頃「じゃあ不完全性定理を不完全性定理自体に適用するとどうなるの?」と素朴に思ったのも、同様の趣旨の表現だったのではないかと思う。
 岩波文庫の『不完全性定理』だったかに、これを本当に理解できるのはごく少数みたいな言説が(著者の主張としてではないが)紹介されて、私としては改めておののいたが、この定理を最終視すべきでない感じの導入がいくらかちりばめられており、きわめて間接的ながらも溜飲を下げた。

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 新約聖書の中にマグダラのマリアが売春婦であるとの記述を探したことのある人はいると思うが、私も探したことがあるのだけど発見できなかった。のちに『マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書) 岡田 温司 』を読んで、彼女は七つの悪霊にとり憑かれていただけで特に売春婦であると明記されているわけではないと知った。あえて挙げれば、マグダラのマリアは、復活し(かけ)たイエスの体に触れ(ようとし)て叱られる記述があり(ヨハネ20:17)、多少はそれっぽい??

 イエスは基本的に罪を犯した女性に優しいが、姦淫の罪で捕らえられた女が石打ちの刑に処せられようとしている時に、「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。」(ヨハネ8:7)とのたまう。
 しかし、このロジックはやや極端で危険な面もあるかもしれない。罪の軽重やその過去と現在を混同しているからである。

 私はいわゆる従軍慰安婦問題に特に強い関心があるわけではないのだが、思い出してみると、いつか沖縄の米兵が強姦事件を起こした直後に朝日新聞だかがなぜか急にこの問題を掘り下げだしたのに気付いて奇妙に思い、「高まりそうな反基地感情を沈静化するために旧日本軍の類縁する問題を持ちだして大衆の心理的バランスを取ろうとしているのではないか」というような憶測を抱いたことがあった気がする。むろん、この憶測(歴史問題を米兵の粗相と両天秤に掛けさせ心理的な相殺を狙っている説)にはなんの証拠もなく上記の出来事も単に偶然にすぎないのかもしれなかったが、もしかするともしかするかもしれない、と私は今でも思っているところがある。言うまでもないが、なぜ朝日新聞がバランサーの役割を担って(担わされて)いるかとかの説明も特にできるわけではない。
 いずれにせよ、私の『慰安婦問題』に対する印象の根っこには、沖縄の米兵の強姦事件が隣接している。本当に関係があるかないかは、不明である。

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 風邪まみれ。
 風邪づくし。

 前の『沈黙』のエントリーで'イコン'の使い方を修正した。私は聖画像一般のことをイメージしていたのだけど、正教方面の成り立ちのほうが意味としては本筋であり強いみたい。一応日本語系の辞書にはそういう一般的な使い方も載ってるみたいだけど英語方面では見当たらない感じだったってこともあり。
 十字架(これはプロテスタントも流石に取り払えない)そのものが偶像じゃないかみたいなネット上の意見やそれに対する回答をちょっと見ていた。??
 映画『沈黙』の公開は来年にずれ込むようだ

 大統領候補のドナルド・トランプひどいっていうか、まぁ結局ヒラリーが勝つとは思うけども。強いアメリカの復活を唱えるトランプ自身がアメリカのもどれない衰退を象徴している気がする。

 このところ認知行動療法の本をたらたら読んでいて、(認知を修正するため)あえて恥をかく治療というのがあるそうで、このブログのことを思い出した私であった。とは言え、ややヘビーな内容でゆっくりしか読めない。これ自体道ならしって言うか、このあと、ちゃんと読んでいない気がしていた手持ちのセシュエーの著作を読むつもり。年内に行けるか?

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img408.jpg このサーバでこのブログを始めた頃に、あるしょうもない事情で私は慣れない法律の勉強(入門)をしていたのだが、その際直接は関係ない憲法の参考書も買ったり借りたりして一応読んだりしていた。それまで、私は「日本の自衛隊は憲法違反だ」と思っていたのだけれど、たとえば右画像のページに出会ってその考えを留保するようになったりした(当時の参考書『2008年版 憲法』《LEC東京リーガルマインド》をまだ持っていたのでそのものをアップした)。
 民主主義社会の憲法典は固定化されたものではなく、時代の変化やそれ自体の瑕疵の発見等に伴って臨機応変に改正されてゆくべきものなのは、成文法の法治国家として言うまでもない。憲法典に反する現実がすべて排斥されるべきものであるずはなく、より良く充実するならそれに合わせる形で、新たな加筆修正等がすみやかに実行されるべきだろう。
 しかし、その成文化ができない事情や背景がある場合に、見かけ上憲法典に反するような事柄でもそれがあきらかに人々にとって妥当な現実なら、憲法典に手は加えないままでも、それに反するより妥当な現実を「憲法現実」として優先させるべきである、特殊な状況がありうるかもしれない。少なくともそのような学説がありうるかもしれない。敗戦後の日本はその意味でやや特殊といえる状況に該当する時を過ごしたかもしれないとも思う。
 多少持って回った言い方をしてしまったが、国の最高法規としての「憲法」が必ずしも憲法典のみによって定義づけられなければならないわけではないという主張は、考えてみればそれなりに自然なものである。そして、わが国の自衛隊が現に憲法典に反して存在しているとしても、憲法現実として捉えなおせばそれとして合憲であるという「考え方」がありうるのではないか。そう思って、私は憲法9条の字面だけを見て自衛隊が違憲だと脊髄反射することをやめたのであった。
 ここにあきらかに不備を含んだ憲法典があるとする。それに反する法律が憲法典自体の不備を補うようなら、憲法現実の優越の観点から「合憲」かも知れない。

 私は「現行憲法無効論」は採らないことは以前に書いたけど、それは今も特に変わらない。

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 先月31日に、ニコニコ動画のニワンゴが親会社のドワンゴに権利関係を継承して解散するというニュースがあったようだ。また、Youtubeが年内に視聴者から直接料金を取るようなコンテンツを導入するという噂が同28日に報じられている。
 なんか、動画コンテンツ業界が険しくなってきている感じなのか?

 $| = 1;で実現できるとされるperlのオートフラッシュはChromeでしか確認できなかった。少なくともIEとFirefoxではバッファされた。ブラウザの設定を変えれば実現できるのかもしれないが、そんなの意味がない。

 きなこヨーグルトのおかげで体調いい感じかもしれない。ヨーグルトは脂肪ゼロのものにしているので、高タンパク低脂肪食品の組み合わせとしてはその他栄養価含め最強の部類ではないか。砂糖はやや多めに入れてるが、その程度でそこまで高カロリーにはならないはずだし、きなこもヨーグルトも甘さに合わないわけがないのであり、きわめて食べやすくなる。
 このまま全快と行きたいものだが。

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