思いつくままのブログ記事

dsm5_p762.jpg DSM5の終盤(SECTION III)には人格障害に関する従来(SECTION II)とは違う診断モデルが紹介されている。説明によると未来に向けた仮の案という感じなのだが、わりとこれが面白い。大雑把に言えば、さまざまな人格障害を今までより統一した物差しで計ろうとする試みであり、人格障害診断全般に共通する基礎部分として提示されているのが表題の四要素なのである。
 私は以前紹介したカーンバーグの現実検討能力の定義をふとした日常においてそこそこ反芻してきたのだけど、最近は上記のDSM5内に書かれる人格機能の四要素を唱える(!?)ことも多い。
 この基礎部分の上に各人格障害の病理学的な細かな諸特性がのっかることになるのだが、これらはまたNegative Affectivity,Detachment,Antagonism,Disinhibition,Psychoticismの五領域におおまかに分類されることになっている。
 従来の単純箇条書き的な診断基準と意味内容が乖離するわけではなく、同じことを別の言い方で表現しているに過ぎないのだと思うが、診断の重複や曖昧さをできるだけ避けるように工夫されているのだと思う。このやりかたがそのまま次のDSM6に採用されるかどうかは分からないが、確かに判りやすいような気もする。ただ、設定された共通概念が具体例に対してそううまく(あるいは有意義に)機能するかどうかが問題かもしれない。

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 少しだけ以前より英語が上達している感じで、しかし多少開けた視界が美しいとは限らず、腹の立つことも少なくないのだが、日本人の弱い立場も思い知らされる。

 アメリカ人が政治の話を好むのは共通の話題がそれしか無いからだと思うが、ぼんやり一般人のコメントを追っていると名状しがたい違和感に苛まれる。政治と個人の距離が近すぎる。それは彼らが普段から政治的な危機と隣り合わせで生活していることを意味してもいると思う。

 アメリカ合衆国がネイティヴアメリカンが使いこなせず死蔵していた途轍もなく厖大なリソースを強奪した上に成り立った近代文明であるとの指摘はよくあるけど、現在の日本は二次的にその強奪のおこぼれに与っている国なのだ。他人事のような正義面は滑稽かもしれない。
 アメリカ合衆国という国は、夏の夜の樹液に誘われた雑多な生物の集合に似ている。(キリスト教を除いて)ほとんど何の共通点もないが、樹液が出ている分には彼らはひとつに統合されることを享受する。結果として形成された社会の多様性それ自体がアドヴァンテージだとは、私はあまり思っていない。アメリカのように多様になれば豊かになるというような考えは、因果を逆に捉えているのではないか。

 よく一般のアメリカ人はバカだという論調があるが、私はそんな感想を持っていない。分数や日本の位置を知らなくても彼らは生きて行ける。むしろ、軋轢の多い社会で他のことに知性を使わなければならないのであって、その中には比較的高度な(凡庸な日本人が普段考えもしない)抽象的判断が含まれていると思う。

 同時代としての日本社会のアドヴァンテージは平和で均質的であることだけではないか、と思ったりする。あとはほとんど全部負けてる。移民を入れるとそのアドヴァンテージも失われるのかもしれない。

 外交のディテールが一般人に分かるわけがないのだが、トランプのような自己愛的な人物に対しては話を合わせるような態度が共謀関係への入り口としてうまく機能すると思われ、総理大臣の対応の仕方は悪くなかったと思う。あまり卑屈になりすぎると良くないがぎりぎりのところで踏み越えずOKではなかったか。

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 ツイッターで何かを主張しようとしている人は大概どっかで聞いたような話でつまらない。自分の頭で考えようとしている人はほとんどいない。結局素材が勝ってる人だけがおもしろい気がするが、それも思い過ごしなのかもしれない。

 物事をなんでも直視できる人というのはとても孤独な人に違いない。逆に言えば親和的な関係に属している事がその人の眼を曇らせる。心地よい繭だから。

 明日は雨。

 みんな自分を買いかぶりすぎなのだ。だからおかしなことになる。

 多分今の状況だとCPUとケースさえあればもう一台PCを組めてしまうが、さすがにそれはどうなのか。

 父親が広島カープのファンで広子と名づけられたNYTの田淵広子だが、現在はなぜか気象・環境記者を自称している。タカタの元社員はなぜ田淵にリークしたのか。

 ポーズとしての反抗は依存のしるし。

 そういえば今日遠赤外線靴下というのを買った。エネルギーを放射しているのだろうか、未だに意味が分からない。セールだったので何でもよかった。

 我々の銀河系にある星の数(2000億)>人の脳細胞の数(1000億+)。

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 かなり以前に思いついたことなのだが、国会議員を選ぶ全国選挙の投票率が2%とか3%とか極めて低値だった場合に、残りの圧倒的多数で新憲法や議会や政府を作って天皇陛下のところに相談に行った場合、『じゃあそうしましょうか』と陛下がおっしゃる可能性は低くないと思う。
 最近つまらない選挙戦が始まったせいか、ツイッターとかで、もっともらしく『でも投票に行くべき』などとここぞとばかりに言い募る芸人(文化人含む)たちがいて目障りだったので、書いてみた。

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 悲しんだり落ち込んだりしている人に気を大きく持とうと言うのは罪のない励ましだけど、巨視的だったり微視的だったりすればするほど、認識は私たちの所与の感覚から離れてゆく。『宇宙の広さに比べればあなたの悩みなど無に等しい』と口走るとき、宇宙の広さは自明の認識のようだが、本当は実際の宇宙の広さなど誰にもイメージできない。逆にどんなものも極小の元素に還元されるにすぎないと主張するのもそれとそんなに変わらない。いずれにせよ極めて間接的かつ抽象的な認識があるだけだ。
 時々認識の縮尺を大きくしたり小さくしたりするのは、人の心にいい効果をもたらす面があるに違いない。登山なんかもそういうリフレッシュ効果を持っている気がする。下界を見下ろして些事に悩んでいる自分を相対化するわけである。
 しかし、人が何を妥当だと思うかは、普通はどうしても日常的な感覚から離れられないと思う。それを超越したような地点において、一時的でない認識の変革を促すことは、日常感覚を捨てさせようとすることとほぼ同義ではないかと思う。何かの修行で、抽象的なものをより確実視するように意識を逆転させるとかそんな話になりがちだ。
 そのような認識の無理なモード変更のようなこととは違い、欠けていた現実的な真実への認識が補われることで世界が変わって見えるということのほうが、現代的な覚醒かもしれない。ネットでは、かつて共同体が見たくないと思っていたりメディアが伝えたくないと思っていた情報も流され残ってゆく。人々は結局様々な真実に向き合わざるを得ない。
 最近'RED PILL'というフレーズを知ったが、覚醒はむしろ日常化していると思う。

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 ミシェル・フーコーは『言葉と物』において(部分的にせよ)要素主義のようなロジックをもちいて既存の枠組みを打ち破ろうとしている。わざと「木を見て森を見ない」ようにする戦略で、ほとんど無限に分割されうる意味や概念の莫大な多様性の中であれもこれもすべては比較不能ではないかというわけである。そのような態度は分類学について述べているときにも垣間見られたが、終章の最後に提示される「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅する」というモチーフが露骨に示していると思う。
 同性愛者として被差別的な時間を生きたとされるフーコーが、生物学上の突然変異や消えて行った種に注意を振り向けて巨大な連続性の存在を主張するとき、読む側としては危うさにドキドキしなくもない。すべてがそんなにも不備なく連続しているといったい誰が断言できるだろう。例えばラバが不妊の動物であることは種の境界の厳しさを示しているかもしれない。中間項が自在にあるとは到底思えない。
 この要素主義的ロジックは現在のLGBTを擁護する多様性の議論にも通底している。欧米の人文系の学部学科でフーコーを教えないところはまれに違いない。
 しかし、詭弁じみていると思わないではいられない。微細な点描(動)画を指差して「これは点の集まりです」とだけ言い張るのは、明らかに不当である。あるいは激しい化学反応を催す物質の組み合わせと無反応の組み合わせを同次元のバリエーションとしてのみ扱うのは、何か肝心のものを無視している。
 脱構築と言ってもパラダイムシフトと言ってもいいが、何らかの発見によって通念を支えていた土台が崩れ全体像が見直されることはあるだろう。同性愛者への理解が科学的に進むことはありうることだし、それによって社会的通念が見直されることもありうることだ。しかしその行く末は誰にも先取りできない。
 人は見たこともない究極の要素を想定してその側に立脚することは出来ない。
 進化と多様性の網状連続体から巨大な生命潮流の存在を感じるのは自由だとしても、それが思い過ごしでないとはいえない。
 同性愛が合理化されるのとは逆に、もし仮に、同性愛を「治療」することが(安価かつ無痛で)出来るようになった場合、彼らはその治療を受けないだろうか?

 私は多様性を否定したいわけではない。多様性を用いた詭弁を否定したいだけだ。まるで多様性を構成する差異が相互に無害であるかのような。

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 以前も書いたけど、京都の人は他人が邪魔なときに、その人に向かって細かく空咳をして散らそうとする習性があるように思う。特に中高年に多い(というか中高年のみ?)。
 聞えよがしの咳払い(「エヘン!」)とはまったく異なる。
 他人に向かって咳をするのはよくないことです。


 暇なときに段落単位でちびちび読むことにしている"Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"だが、序文やらなんやらは終わって一応本文には入っているのだが、のっけからスプリッティングで、医師に対する態度が極端から極端へ変化する患者が登場。解離とは違うので、+から-に振れても記憶は保たれていることが強調され、そのことは一般的な解釈なのだが、私は前にも書いたがスプリッティングはまた別の様態の記憶の不具合を含むのではないかという疑問を持っているので、何か手掛かりがないか多少期待しながら読み進めたい。私の疑問は、肯定的な評価をしている時に、過去に正反対の評価をしていたこと自体は憶えていても、正反対の評価を生み出していた内的・感情的な源みたいなものの記憶を忘れているのではないか、みたいなモチーフ。
 そのあたりはもはや「記憶」からアプローチすべきじゃないってだけかもしれないな。
 非常にのろのろ進んでゆく予定。であるがゆえのメモ。


 "either"は条件文においては「どちらか一方の」という意味しかもたない。"provided that~"は「~という条件において」という条件文(節)である。したがって、一般的に"either"には「どちらも」の意味も「どちらか一方の」の意味もあるため、日米和親条約は二つの解釈がありえる曖昧な文面なのであり、日本側はそこでうまく騙されたという説は、間違いではないかと思う。つまり、あれは一義的な英文なのである、たぶん。
 条約の原本かドラフトみたいなものがオランダ語でそこからの和訳が間違った(蘭学者はたくさんいたはずだが...)という情報もあるみたいだが、つきあわせて相手側の英語版を確認しないわけがないならそこでも間違ったことになり、むしろさらに不可解な気がしてくる。

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 WikipediaのIsolationを訳した影響か、このところ記憶の中に埋もれていた自尊心をくじくような出来事が時々蘇ってきて、慙愧に堪えない。
 しかし、これはたぶんいいことだ(フロイトの徹底操作みたいなもの)。
 それと、あの中に出てくる単純な情緒構造の人というのは、今となっては発達障害概念で説明がある程度つくかもしれず、精神療法側からのみ押して行っても狭いような。そうでなくても、私は最近、いわゆるナントカ人格障害の基盤に、無名の発達障害的なものが関与をしているのではないか、みたいなイメージに蝕まれていて、仮にそこまで直截じゃないとしても科学の進歩によって個々の脆弱性の器質的な正体が露わになればいいなぁ、と思ったりする。治せるわけではないとしても。


 このところまた風邪である。


 Alex Jonesは現代ネットが祭り上げた一つの極だろうと思う。日本のネットを振り返るともっとも有名になった部類でも異次元的に小粒だ。
 直接話法により負のストロングワードを多用する手法とか、(うわべだけだとしても)品性を気にするメディアが忌避するやりかただと思う。「彼の『~』という主張は許せない」とかの『~』の部分にことさら激しい表現を選び更にカメラ目線でそこだけ執拗に繰り返したりする。その『~』の部分をAlex Jonesが吠えている時に視聴を始めた人はぎょっとするに違いないが、一応あとにつじつま合わせの文章が続くのではあるが。人の興味をひくための(比較的下品な)テクニックであろうか。
 しかしトランプ政権がそこまで激しいカタストロフィを招くでもなく、一定の安定を得始めている感じで、騒ぐネタに困っている感がある。大統領選挙中・前は再生回数が優に100万を超えるような動画が多々あったが、最近はLive録画の数万がほとんどで、ハリケーン物等でいくつか10万超えていた程度。最近の北朝鮮関連も再生数で特筆すべき興味を持たれているわけではないのがわかる。


 アマゾンの「配達中メール」が文字化けしていたのでソースを調べたら、文字コードの宣言がUTF-8なのに中身はJIS(ISO-2022-JP)だった。


 江戸時代、日本の開国は日米和親条約内での'either'の誤訳によってなされた。本来日本側の意図としては両政府の意思がそろった場合のみ下田にアメリカ領事館がおけるようにするつもりだった。しかし'either of the two Governments'にしてしまったのでどちらか一方がそう思えばできることになってしまった。

Treaty of Kanagawa
ARTICLE XI.
There shall be appointed, by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda, at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty, provided that either of the two Governments deem such arrangement necessary.

https://en.wikisource.org/wiki/Treaty_of_Kanagawa

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 人の意欲というものがどのように発しているのか、私は不思議に思ってきた。意欲の類型的な表象というものがあるなら、それはたぶん、人々が何かを反復しようとしているということに他ならない。それは親のイメージを今度は自分に当てはめようとする反復かもしれないし、彼らの果たされなかった願望を今度は自分が身代わりとなって果たそうとする反復かもしれない。親(役)からの影響が薄ければ(イマーゴ獲得の失敗,イマーゴ自体の歪み、etc)、第三者あるいは第三者が願望する何者かのイメージを自分の身の上に反復しようとするかもしれない(これはより表層的な生き方になるかもしれない)。
 いずれにせよたいていの人は何かを反復しようとしていて、しかし新たな現実の前にすんなりとはいかず、何らかの工夫や迂回を強いられることになり七転八倒するのが常かもしれない。
 コフートの言うSelfの病理は適切なイマーゴの受容に失敗したところから発する空虚であり無気力であるとされると思う。上述の表層的な生き方のパターンは、意識が虚無に支配されているとしても、まだ意欲そのものは保持されている。Selfの破綻はより重くなると(e.g.X氏の症例)、意欲から理想や野心が失われて(つまり抽象化された方向性が失われ)獣的になっていくと思うが、ほとんどの人はそれほど単純ではいられないため、うずまきのようにして意欲そのものが失われてしまうと思われる。
 私の疑問のモチーフとしては、何もないところから意欲は形式を得られるのか、ということである。逆に言えば、人々が反復しようとしているものがどうしてもそのような形式でなければならないことの内実は何なのかということである。それは人生をかけた錯誤であるのかどうか。

It is easy to see against this background that the psychology of the self provides us now with the means of explaining a related fact which, to my mind, has hitherto been unexplained, even though it has, I believe, been recognized by analysts for a long time. Some people can live fulfilling, creative lives, despite the presence of serious neurotic conflict-- even, sometimes, despite the presence of a near-crippling neurotic disease. And, in the obverse, there are others, who despite the absence of neurotic conflict, are not protected against succumbing to the feeling of the meaninglessness of their existence, including, in the field of psychopathology proper, of succumbing to the agony of the hopelessness and lethargy of pervasive empty depression-- specifically, as I said before, of certain depressions of later middle life.

Kohut, Heinz. The Restoration of the Self (pp.241-242). University of Chicago Press. Kindle 版.
As I said earlier when discussing the significance of the depressions of later middle age (cf. p. 241, above)-- but this crucial point bears repetition-- there are, on the one hand, many people with poorly constituted selves who, despite the absence of symptoms, inhibitions, and disabling conflicts, lead joyless and fruitless lives and curse their existence. And there are, on the other hand, those with firm, well-defined selves who, despite serious neurotic disturbance-- and yes, occasionally even despite their psychotic (or borderline) personalities6-- are leading worthwhile lives and are blessed with a sense of fulfillment and joy.

Kohut, Heinz. The Restoration of the Self (pp.281-282). University of Chicago Press. Kindle 版.
※コフートの'borderline'は現代的なBPDとはかなりニュアンスが違うので注意。


追記(2017/08/08):
 オオカミに育てられたオオカミ少女のイマーゴは親オオカミだったのだろうか。それともイマーゴ自体が喪失された状態だったのだろうか。


追記2(2017/08/12):
 「親族」を「親(役)」に、「他者」を「第三者」に書き直した。血がつながっていない養父母とかでもイマーゴになりうるので表現に苦慮していた。またイマーゴの取り込みは自己と対象の融合状態で実現するので、その外側という意味で「他者」と書いていて分かりにくかった。「第三者」ならましなのではないかと思いついたので訂正してみた。

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 人間あんまり自分の間違いに注目しすぎないほうが精神衛生上いいとは思うのだが、特に強い間違いというのは、何か別のストレスがかかっている状況で起こることが多いような気がする。あっぷあっぷというかそんな感じの時期に、ほとんど根底的な次元から間違えてしまう、といったようなこと。
 体力的な負荷をかけると、四則演算のような単純な計算でもミスが発生・増加するというような調査があったような気がするし、鬱病の発症でIQが低下するといったような情報も耳にしたような気がする。
 しかし...。
 私はあるストレスのかかった悪い時期にどこか意図的に錯誤するというようなことがあった気がする。きわめて投げやりの高じた状態というか、錯誤を許す錯誤。表現しづらい。
 錯誤は、直接の被害が特にないとしても、自分への理解者を遠ざける効果をもたらすと思う。なんであれ整合的にふるまえていれば、他者の理解につながるのだ。
 錯誤は孤独なのである。


 ホントはコフートの悪文について書こうと思っていたのだが気が乗らない。英語なのに主語と述語が異様に離れているとか、なんでもかんでも一文にまとめようとしすぎるとか、挿入句が多用されるばかりでなく多次元の入れ子構造になることも珍しくないとか、諸々そういったことなのだが、著者が意識の流れをそのまま垂れ流すような書き方というか、そこからコフートの過剰な自己中心性と彼のフロイト派からの離反にまでつなげてみようと思ったのだが、今書いたからもういい。


追記(2017/08/18):
 錯誤の孤独というのは、現実をうまく捉えられないことの暗闇にはまり込むことなのだろう。人は結局、否が応でも生の現実に依拠せざるをえない。交通事故のよく起こる交差点で「みんなが間違えている」ことは、本質的な慰めにはならない。たしかに人が錯誤すること自体の現実性というものがあるとしても、それは行為の主体から次元をずらした別の認識にすぎない。何らかの規則性(と思しきもの)が発見されたとしても同様である。
 ひいては、同じ宗教に入ったり何かのコンサートで幻想を共有したりすることも、本来、各人の孤独の証明にすぎないかもしれない。「みんな現実がわからない」と同調してみてもそんなものは理解ではない。
 常に現実に正対しうる者だけが。しかし、これだと最終的にカントの「物自体」の超越性みたいな話になってしまうかもしれない。もともと誰も群盲以上にはなれないって?

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