思いつくままのブログ記事

 以前も書いたけど、京都の人は他人が邪魔なときに、その人に向かって細かく空咳をして散らそうとする習性があるように思う。特に中高年に多い(というか中高年のみ?)。
 聞えよがしの咳払い(「エヘン!」)とはまったく異なる。
 他人に向かって咳をするのはよくないことです。


 暇なときに段落単位でちびちび読むことにしている"Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis"だが、序文やらなんやらは終わって一応本文には入っているのだが、のっけからスプリッティングで、医師に対する態度が極端から極端へ変化する患者が登場。解離とは違うので、+から-に振れても記憶は保たれていることが強調され、そのことは一般的な解釈なのだが、私は前にも書いたがスプリッティングはまた別の様態の記憶の不具合を含むのではないかという疑問を持っているので、何か手掛かりがないか多少期待しながら読み進めたい。私の疑問は、肯定的な評価をしている時に、過去に正反対の評価をしていたこと自体は憶えていても、正反対の評価を生み出していた内的・感情的な源みたいなものの記憶を忘れているのではないか、みたいなモチーフ。
 そのあたりはもはや「記憶」からアプローチすべきじゃないってだけかもしれないな。
 非常にのろのろ進んでゆく予定。であるがゆえのメモ。


 "either"は条件文においては「どちらか一方の」という意味しかもたない。"provided that~"は「~という条件において」という条件文(節)である。したがって、一般的に"either"には「どちらも」の意味も「どちらか一方の」の意味もあるため、日米和親条約は二つの解釈がありえる曖昧な文面なのであり、日本側はそこでうまく騙されたという説は、間違いではないかと思う。つまり、あれは一義的な英文なのである、たぶん。
 条約の原本かドラフトみたいなものがオランダ語でそこからの和訳が間違った(蘭学者はたくさんいたはずだが...)という情報もあるみたいだが、つきあわせて相手側の英語版を確認しないわけがないならそこでも間違ったことになり、むしろさらに不可解な気がしてくる。

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 WikipediaのIsolationを訳した影響か、このところ記憶の中に埋もれていた自尊心をくじくような出来事が時々蘇ってきて、慙愧に堪えない。
 しかし、これはたぶんいいことだ(フロイトの徹底操作みたいなもの)。
 それと、あの中に出てくる単純な情緒構造の人というのは、今となっては発達障害概念で説明がある程度つくかもしれず、精神療法側からのみ押して行っても狭いような。そうでなくても、私は最近、いわゆるナントカ人格障害の基盤に、無名の発達障害的なものが関与をしているのではないか、みたいなイメージに蝕まれていて、仮にそこまで直截じゃないとしても科学の進歩によって個々の脆弱性の器質的な正体が露わになればいいなぁ、と思ったりする。治せるわけではないとしても。


 このところまた風邪である。


 Alex Jonesは現代ネットが祭り上げた一つの極だろうと思う。日本のネットを振り返るともっとも有名になった部類でも異次元的に小粒だ。
 直接話法により負のストロングワードを多用する手法とか、(うわべだけだとしても)品性を気にするメディアが忌避するやりかただと思う。「彼の『~』という主張は許せない」とかの『~』の部分にことさら激しい表現を選び更にカメラ目線でそこだけ執拗に繰り返したりする。その『~』の部分をAlex Jonesが吠えている時に視聴を始めた人はぎょっとするに違いないが、一応あとにつじつま合わせの文章が続くのではあるが。人の興味をひくための(比較的下品な)テクニックであろうか。
 しかしトランプ政権がそこまで激しいカタストロフィを招くでもなく、一定の安定を得始めている感じで、騒ぐネタに困っている感がある。大統領選挙中・前は再生回数が優に100万を超えるような動画が多々あったが、最近はLive録画の数万がほとんどで、ハリケーン物等でいくつか10万超えていた程度。最近の北朝鮮関連も再生数で特筆すべき興味を持たれているわけではないのがわかる。


 アマゾンの「配達中メール」が文字化けしていたのでソースを調べたら、文字コードの宣言がUTF-8なのに中身はJIS(ISO-2022-JP)だった。


 江戸時代、日本の開国は日米和親条約内での'either'の誤訳によってなされた。本来日本側の意図としては両政府の意思がそろった場合のみ下田にアメリカ領事館がおけるようにするつもりだった。しかし'either of the two Governments'にしてしまったのでどちらか一方がそう思えばできることになってしまった。

Treaty of Kanagawa
ARTICLE XI.
There shall be appointed, by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda, at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty, provided that either of the two Governments deem such arrangement necessary.

https://en.wikisource.org/wiki/Treaty_of_Kanagawa

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 人の意欲というものがどのように発しているのか、私は不思議に思ってきた。意欲の類型的な表象というものがあるなら、それはたぶん、人々が何かを反復しようとしているということに他ならない。それは親のイメージを今度は自分に当てはめようとする反復かもしれないし、彼らの果たされなかった願望を今度は自分が身代わりとなって果たそうとする反復かもしれない。親(役)からの影響が薄ければ(イマーゴ獲得の失敗,イマーゴ自体の歪み、etc)、第三者あるいは第三者が願望する何者かのイメージを自分の身の上に反復しようとするかもしれない(これはより表層的な生き方になるかもしれない)。
 いずれにせよたいていの人は何かを反復しようとしていて、しかし新たな現実の前にすんなりとはいかず、何らかの工夫や迂回を強いられることになり七転八倒するのが常かもしれない。
 コフートの言うSelfの病理は適切なイマーゴの受容に失敗したところから発する空虚であり無気力であるとされると思う。上述の表層的な生き方のパターンは、意識が虚無に支配されているとしても、まだ意欲そのものは保持されている。Selfの破綻はより重くなると(e.g.X氏の症例)、意欲から理想や野心が失われて(つまり抽象化された方向性が失われ)獣的になっていくと思うが、ほとんどの人はそれほど単純ではいられないため、うずまきのようにして意欲そのものが失われてしまうと思われる。
 私の疑問のモチーフとしては、何もないところから意欲は形式を得られるのか、ということである。逆に言えば、人々が反復しようとしているものがどうしてもそのような形式でなければならないことの内実は何なのかということである。それは人生をかけた錯誤であるのかどうか。

It is easy to see against this background that the psychology of the self provides us now with the means of explaining a related fact which, to my mind, has hitherto been unexplained, even though it has, I believe, been recognized by analysts for a long time. Some people can live fulfilling, creative lives, despite the presence of serious neurotic conflict-- even, sometimes, despite the presence of a near-crippling neurotic disease. And, in the obverse, there are others, who despite the absence of neurotic conflict, are not protected against succumbing to the feeling of the meaninglessness of their existence, including, in the field of psychopathology proper, of succumbing to the agony of the hopelessness and lethargy of pervasive empty depression-- specifically, as I said before, of certain depressions of later middle life.

Kohut, Heinz. The Restoration of the Self (pp.241-242). University of Chicago Press. Kindle 版.
As I said earlier when discussing the significance of the depressions of later middle age (cf. p. 241, above)-- but this crucial point bears repetition-- there are, on the one hand, many people with poorly constituted selves who, despite the absence of symptoms, inhibitions, and disabling conflicts, lead joyless and fruitless lives and curse their existence. And there are, on the other hand, those with firm, well-defined selves who, despite serious neurotic disturbance-- and yes, occasionally even despite their psychotic (or borderline) personalities6-- are leading worthwhile lives and are blessed with a sense of fulfillment and joy.

Kohut, Heinz. The Restoration of the Self (pp.281-282). University of Chicago Press. Kindle 版.
※コフートの'borderline'は現代的なBPDとはかなりニュアンスが違うので注意。


追記(2017/08/08):
 オオカミに育てられたオオカミ少女のイマーゴは親オオカミだったのだろうか。それともイマーゴ自体が喪失された状態だったのだろうか。


追記2(2017/08/12):
 「親族」を「親(役)」に、「他者」を「第三者」に書き直した。血がつながっていない養父母とかでもイマーゴになりうるので表現に苦慮していた。またイマーゴの取り込みは自己と対象の融合状態で実現するので、その外側という意味で「他者」と書いていて分かりにくかった。「第三者」ならましなのではないかと思いついたので訂正してみた。

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 人間あんまり自分の間違いに注目しすぎないほうが精神衛生上いいとは思うのだが、特に強い間違いというのは、何か別のストレスがかかっている状況で起こることが多いような気がする。あっぷあっぷというかそんな感じの時期に、ほとんど根底的な次元から間違えてしまう、といったようなこと。
 体力的な負荷をかけると、四則演算のような単純な計算でもミスが発生・増加するというような調査があったような気がするし、鬱病の発症でIQが低下するといったような情報も耳にしたような気がする。
 しかし...。
 私はあるストレスのかかった悪い時期にどこか意図的に錯誤するというようなことがあった気がする。きわめて投げやりの高じた状態というか、錯誤を許す錯誤。表現しづらい。
 錯誤は、直接の被害が特にないとしても、自分への理解者を遠ざける効果をもたらすと思う。なんであれ整合的にふるまえていれば、他者の理解につながるのだ。
 錯誤は孤独なのである。


 ホントはコフートの悪文について書こうと思っていたのだが気が乗らない。英語なのに主語と述語が異様に離れているとか、なんでもかんでも一文にまとめようとしすぎるとか、挿入句が多用されるばかりでなく多次元の入れ子構造になることも珍しくないとか、諸々そういったことなのだが、著者が意識の流れをそのまま垂れ流すような書き方というか、そこからコフートの過剰な自己中心性と彼のフロイト派からの離反にまでつなげてみようと思ったのだが、今書いたからもういい。


追記(2017/08/18):
 錯誤の孤独というのは、現実をうまく捉えられないことの暗闇にはまり込むことなのだろう。人は結局、否が応でも生の現実に依拠せざるをえない。交通事故のよく起こる交差点で「みんなが間違えている」ことは、本質的な慰めにはならない。たしかに人が錯誤すること自体の現実性というものがあるとしても、それは行為の主体から次元をずらした別の認識にすぎない。何らかの規則性(と思しきもの)が発見されたとしても同様である。
 ひいては、同じ宗教に入ったり何かのコンサートで幻想を共有したりすることも、本来、各人の孤独の証明にすぎないかもしれない。「みんな現実がわからない」と同調してみてもそんなものは理解ではない。
 常に現実に正対しうる者だけが。しかし、これだと最終的にカントの「物自体」の超越性みたいな話になってしまうかもしれない。もともと誰も群盲以上にはなれないって?

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 先日、去年も同時期に行った建物内の同じ場所で迷って、そのもやもやが尾を引いている。
 要は、通路を間違えたと思い込んで四つ角で曲がったらそれ自体が間違いだったということなのだが(つまり一番最初のイメージで正しくそのまま直進してよかった)、一応すぐに間違えたことに気づいて引き返したのだが、恐るべきことにというか、しばらくして去年も同じ場所でほとんど同じように間違えたことを思い出し、それであれこれ原因を考えてしまった。はっきりした結論が出るわけもないのだが、とにかくまた来年行くようなことがあれば間違えないようにしたい。ホントは少し伏線のようなものがあるのだが省略する。
 フロイトは誤謬の中に過大な真実があると信じたが、今は一般的ではない。しかし彼の視角が全否定されたというわけでもないかもしれない。


 ツイッターのリストを整理して、日本人のジャーナリストっぽい人々を解除した。彼らのツイートは結局ほとんど意味がないということに気付いたため。ただし英語圏のジャーナリストはそのまま残している。彼らは私にとってはサンプル的な価値があると思う。
 レガシーメディアに対抗するネット勢力はすでに組織化が進んでおり、ニュースツイートはそれらを含めたメディア系に頼っていたほうがいい気がする。個別のジャーナリストたちは好きなことを気ままに書き込んでいるという点で素人と特に変わらない。


 コルベアの笑いは代弁者の笑いだ。彼が惹き起こすのは、彼の主張や皮肉に対し同調を表す笑いであると思う。驚きが弱く、したがって爆笑があんまりない(トランプが『あいつは面白くない』と指摘したのもこのあたりにある程度由来する面もあるかもしれない)。彼は大きな声を出せない人々(特に優れた能力を持たない白人とかアフリカ系アメリカ人とか)の本音をおおっぴらに音声化する役割を担っていると思う。観客は笑うことで立場に同調し助力する。
 私は個人が発信できるネット時代の進行によって、「代弁者」はほとんど必要なくなるのではないかと思っていたところがある。これから先どうなるか分からないが、対抗的なアレックス・ジョンズにしろ、今のところ必ずしもそうなっていないようだ。
 人々は依然として象徴としての代弁者を欲している。Googleがはじき出す検索順位一位はそのような象徴足りえない。
 しかし本当に、どうしてもそれは「誰か」である必要があるだろうか?

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 平凡な勝者は公正な手続きを経由していると、特段の理由もなければ前提されがちだが、世の中には悪意によるとも限らず他者を陥れたり破壊してしまう人たちがおり、現実をそう単純ではないものにしている。
 評価者の主観的な裁量に負うところが大きいもの、例えば、人物評価なども社会のあらゆるところで出てくる試練だが、それが最低限の善意と公平さによってなされるという保証はとくにない。ある権威付けられた採点者が「娯楽的」に誰かを陥れようと実際とはかけ離れたあるいは無関係な評価を公の文書にして、当人あるいは他者がそれを覆すことが不可能に近いシチュエーションというものはありうる。まさかそんなひどいことはしないだろうと思うようなことでもする人はいる(具体例を想起しているわけだが)。なにか変な裁定がなされたと感じる傍観者もいるかもしれないが、陥れられた人は平和裏に葬り去られる。
 留年者を出しまくる病的に厳しい大学教授の話も聞いたことがあるが、制度上彼自身がチェックの対象でもあるはずなのでまだ完全にタガが外れた状態ではないかもしれない。
 変わった人はたまにいるのであり、その辺は運だ、と主張することはできるだろうしある程度は同意するが、もう一方で、人の善意やコモンセンスを信頼し(すぎ)たゆるいシステムやルールの隙間には常に人の暴力性がうごめく余地があるのだと思える。
 被害者に特段の落ち度があるわけでもなく、人格的な攻撃誘発性があるわけでもなく、また好き嫌いの感情すら関係がなく、人生が破壊されるのだとしたら不合理この上ないが、裁く法律があるわけでもない。
 社会はストレスと暴力に満ちている。
 さらに人間の獣性が蔓延する。
 天網恢々疎ニシテ漏ラス。
 不用意に現状を美化すべきではない。


 しばらく前だが、ウォーキングの終着の公園から帰ろうとしたら子供用の柔らかいラグビーボールが転がってきて、声をかけてきたひとりの5・6歳位の男の子に投げ返してあげた。紡錘形のボールはワンバウンドしたものの、男の子はうまく受取り、まるで誰かからパスを受けたかのように即座にキックしてその方向に走り出した。彼なりのイメージがあったのだろうか。
 ありふれた出来事に違いないが、私はなんとなくハッとした。不規則に跳ねるラグビーボールが、その時膠着していた私の思考を打ち砕いたようだった。
 元気なかわいらしい男の子だった。

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 相手を擁護するような立場で物事を解釈しようとしていると、真実が曇る場合がある。最近私はわりかし客観的に思い返せるようになったことがあり、特に基本情報が変わったわけでもないのに、そこそこ眼からうろこな感じになっている。

 北朝鮮に喜び組というのがあるらしいが、あれは近所で餓死していても日々喜んでいるのだろうか。それとも彼女たちはある程度隔離されて生活しているのかな。朝鮮語はわからないけど、喜ばせ組ではなく喜び組であるところにポイントがあるような気がする。何があっても大喜び。

 ブログと真剣に向き合いたくない私だが、サーバ維持との関係があるとしても、こんなに続けるとは思っていなかった。早めにやめておくべきだったかもしれない。

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 最近ハードディスクの隅にあった古い論文をなんとなく読み返したのだが、これは虐待による海馬(短期記憶を司る)の萎縮が原因となって、解離性同一性障害(人格Aによる記憶が人格Bに共有されない)が起こるのではないかと立論しているものなわけなのだけど、もしかすると、スプリッティングもある種の記憶障害なのではないかと空想したりした。
 スプリッティングの対象関係論的な解釈として、ある成長段階(乳児期)において何らかの不手際があったために二極的な状況を統合し得なかった、みたいなことがあるのかもしれないが、そのような段階をうまくやり過ごしたにも拘らずむしろ積極的な暴力によって後年破壊されたという事態がありうるかどうか。
 人間の主体や恣意性というものは、特殊な状況下を除いて、「二極」の間に存するような気もする。虐待者が破壊しようとする標的がまさに相手の主体なのだとしたら、それはそれで一定の辻褄が合うというかある種の見取り図が描ける気もする。
 しかし、仮に、こういったことの自然科学的な原因が突き止められたとしても、それは希望なのだろうか。

 コフートの三部作の邦題は「自己の分析」「自己の修復」「自己の治癒」ということになっているが、実は3つめの原題は'HOW DOES ANALYSIS CURE?'で必ずしも『自己』シリーズにはなっていない。コフートは結局変容性内在化を達成しえなかったとされる。
 無責任にあとづけるなら、私は「自己の創造」と言ってみたい気もする。


追記(2017/06/10):
 コフート本の邦題の「自己の修復」を「自己の回復」と書いていたので訂正。私はこの本は英語で読んでいたため邦題がうろ覚えでした。原題は'The Restoration of the Self'。

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 トラウマを負った人に確率論を教えると治るという主張が巷間ありうるかもしれない。
 「あなたの遭遇した悲劇はとても珍しいのだから再び起こる確率はゼロに近いのであり未来に向けて恐怖することは不合理なことです」というような説得。こういう説得がなぜ無力なのかという時に、彼らは悲劇が再現される可能性がゼロでないこと自体が恐怖なのだという説明(or「無意識」概念の導入)もありうるだろうが、鈍感な人にはピンと来ないおそれもある。
 それで、誰にでもわかる例えとして親の影響があるかもしれない。ある固有の性質を持った親の影響も固有であり、だから確率論的にとても珍しいとも言えるが、にもかかわらず(!?)、子は一生親の影響下に生きてゆく面がある。もし理性により自己を完全に相対化できるのならば、親子のくびきからすっかり解き放たれるはずだが、一般にどうもそうはならない(→イマーゴ)。
 だから、どういう親の子として生まれ育つかということはトラウマティックな出来事だといえなくもないと思うが、多くはポジティヴな意味を帯びているということ(おそらくは)。


 フォント関連で参っていた。パソコンやタブレットやスマホなど各端末のデフォルトフォントは違うが、CSSで揃えられるのは、その高さであり幅ではない。いや、その高さすら怪しい気がする(実体参照とか)。どうしたものか。
 色んな端末でサイトがどう見えているかシュミレートしますよ的なWEBサービスが微妙なのは、各OSのデフォルトフォントの違いまで踏み込めないから。せいぜい各ブラウザの仕様の違いを表現するに過ぎない。
http://browsershots.org/

 ノートPCもデスクトップPCもおととし一旦Windows10にしているので、その時Edgeは何度も試用したはずなのだが、なんだか記憶していたことと違う動作があり、ミステリー。私の勘違いかEdgeの変更か、アップグレードの様式の変更ということもありうる。???
 いずれにせよ、思い違いがあってまた凹んでいる。

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 前回'aim-inhibition'項目の短い文章の和訳に思いの外手こずって、何度も書きなおしてしまった。
 動物行動学者のローレンツが、「攻撃しないことが愛情対象であるということ」みたいなことを書いてたと思うけど、そのことを人間に置き換えたという意味においても'aim-inhibition'の価値は重い。しかし人間の場合動物よりもっと高度で、言語的意識も絡むのであり、そういう面では'aim-inhibition'は弁証法の「止揚」にも似ている。
 内的に未成熟な親は悲劇を生みがちで、人生上のストレスの掛かる地点で適切に'aim-inhibition'できるかどうかが岐路になると思われる。相手が一人の他者であり、物でも道具でもペットでも自分でもないということ。

 『沈黙』観に行かないとなぁ。あんまり気乗りしていない理由は以前観たメル・ギブソンの『パッション』の見せ場(?)であるイエスのムチ打ち長回しシーンの通俗感というかアメリカ映画の払底感というか「こんなことして客寄せしてなんになんの?」みたいな落胆が記憶の隅に残っているからということもあると思う。スコセッシは芸術家としてのレベルがもう少し上のはずだが、時代の流れで、拷問シーンで過度にセンセーショナリズムを追ってるとかだとやだなぁ。
 いちおうまだ猶予はあるはず...。

 最近またきなこヨーグルト食べまくり。

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