思いつくままのブログ記事

 自己評価や自尊感情の低い人は、できることなら少なくとも最低限の水準までは、肯定してくれる他者に依存するのではなくて自分で自分を肯定できるようになるのが正攻法だと思うけれど、なかなか簡単ではない場合もあるかもしれない。
 たとえば彼らに対し、カーンバーグならあくまで他人としてサポートなのだが、コフートは違うようだ。
 コフートは、人の依頼心の根本的なぬぐいがたさを強調する。確かに、普通人は一人では生きてゆけず、誰かと感情を分かち合いながら生きてゆかざるをえない生き物なのだろう。しかし、心のほとんど原初的と言っていい基礎部分を、大人になってから他者に依存して維持するというのは、かなり危険なことだと私は思う。それは本来親子関係を通して幼少期に完成していなければならなかったはずの部分なのであり、事後的な人間関係による補完は健全な形ではとても難しいものである気がする。幸福でなかった親子関係からできる限り距離を取り、いつか不当に否定されたありのままの自分を覚悟として自分で肯定してしまうのがひとつの方法になるのではないかと思う。そういう内的なやり直しがどこまで有効かつ適切に実現できるかはかなり個別の事情に左右されるかもしれないが、共依存のような病的な依存関係に陥らないためにも、できるだけ自助努力によって最低限の自尊感情の回復を目指すべきだ。
 たとえば、(人種)、性別、容姿、能力、自分史、基礎的欲求、etc...を肯定してしまうといいと思う。

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 なんだか体調がすぐれないと思っていたら、また風邪を引いてしまった。

 結局『The Restoration Of The Self』読み始めたが、急いで読む本でもないので、無理せず暇なときに少しずつ読んでゆく。面白くなってきたら勝手に加速するであろう。

 利他や喜びの分かち合いはそれとして、前提というか土台というか低次というか、目の前の現実が、自分が働きかけ作用することによって(たといささいであっても)変化する喜びというものがあるような気がする。うまく言えないが、なんでもいい、何かが動くとか変質するとか形を変えるとか...、能動性の基礎となる喜び。特に観察的な意識に囚われている時には、人はどこかぬけがらのようになるというか、そういう自己を主体とした感覚を忘れがちになるもののような気がする。ともすると観察する意識に囚われがちな私としては、「能動の喜び」を肝に銘じよう。

 中国軍のレーダー照射。戦争はいやだなあ。

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 今週初めにデスクトップPCのOSを再インストールする羽目に陥ってしまった。
 古いフリーソフトをWindows7上で動かしたのが事の発端だと思うのだが、CPU使用率が当該ソフトを閉じても100%から戻らなくなり、もちろんそれ自体も良くないのだが、たまたま同時に開いていたブラウザのフラッシュプレイヤーの調子も連動して悪くなって、何とか改善しないかとフラッシュの入れ替えやAMDのビデオドライバを最新にしたりしていたら、OS起動時に必ず「kdbsync.exeは動作を停止しました」というメッセージが出るようになってしまい、クリーンインストールする決断に至った。
 この、ビデオドライバソフトによる「kdbsync.exeは動作を停止しました」というメッセージは、ある種のアップデートの失敗のようで、検索するといくつか関連・類似がヒットする。改善策としては、部分機能をアンインストールする方法とレジストリをいじる方法があるようだったが、潜在的に事態が複雑化していると思えたのでどちらも採らず、根本治療することにした。
 その他、Microsoft Security Essentialsの「フル」モードで2度スキャンして検出ゼロだったので、ウィルス等が原因であることは考えにくい。
 HDDフォーマット前に、クロスケーブル経由でノートPCにほとんどのデータを退避。LANボードもケーブルも100Mbpsには対応していたのだが、もう一段上の1Gbpsが欲しいところだった。ただ、あまり高速になるとHDDの処理速度等も転送速度に関わってくるかもしれない...。

TheRestorationOfTheSelf.jpg Kindleストアでハインツ・コフートの『The Restoration Of The Self』を買ったので、まずは予習かたがた和田秀樹の新書を2冊読んでいた。和田秀樹でコフートに出会う人は少し不幸な気もするが、どうなのだろう。私は『The Analysis Of The Self』の邦訳と他の作家による『コフート理論とその周辺』という入門書をすでに(漫然とだが)読んでいたので、コフート派・和田氏に対する名状しがたい違和感を保持し続けることができた。と言っても、相対的に、和田氏は「それなり」にはまともな人だとは思った。少なくとも商業マスコミに出てくる精神科医に限れば幾分ましなほうであるかもしれない。(私は商業マスコミによく出る精神科医は本業で問題を抱えてるのでは?と疑っているところがあるので要注意)
 このブログからも推察できるかもしれないが、私はどちらかと言うとクライン―カーンバーグのラインを素人なりに好んできた。ただ、コフートが嫌いなわけでは特になく、独立峰的なイメージを持っている。
 予習は終えてさあ本体を読み始めようと思っているが、どういうわけか気が進まない。
 利他とか、喜びを他人と分かち合うとか、そういったことが最近個人的に気になっているのだが、コフートではあまりいい「化学変化」を期待できない気もする。しかしまあ、あまり無用な先入観を持つのはよそう。

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 強調表現などのためにわざと語順を崩している英文を日本語にするのは難しい。日本語として自然に読めるようにするためには、そういったニュアンス的なものは捨象せざるを得ない場合があると思う。しかしホントは厳密には別の意味になっている。何か一石二鳥の表現があればいいんだけども...。

 英単語の"integrity"は「正直」という意味のようだけど、語源的には『手を付けていない状態』ということであるらしい。韓国人が著した英単語の学習本(の邦訳)に書いてあったのだが、アダムとイヴがリンゴを食べる前の無垢な状態を念頭に、"integrity"を捉え、だから「西洋人は性善説なのだ」と述べていた。
 非常に違和感あるわけだが、韓国では西洋は性善説の文化圏として理解されているのだろうか。それともこの著者であるムン・ドク氏のみの個人的意見なのだろうか。(悪い日本人をやっつけてくれた?)西洋人が性善説に基づいているように見える韓国人というのも、想像するとちょっとショッキングだ。しかし、では彼ら自身は何なのだろう。

 孟子の言う性善説は、人間が倫理的逸脱や犯罪をおかさないということを前提にする考えではない。あくまで「兆し」としての良心が誰にでもあるという考えなのだ。よく役人や政治家が、法律や行政の不備を覆い隠すために『性善説でやってきたので』というようなことを言うが、あれはあんまり意味が無いというか、言い訳になっていない。仮に、誰にでも良心の兆しがあるとしても、その上で現に誰もが間違うというのが、本来の性善説なのだ。

 孟子が現代に生きていて、サイコパスのような先天的に共感性が失われている(扁桃体に何らかの異状があるという説が有力らしいが)人格に出会ったら何と言うだろうと思う。それでも兆しとしての良心の存在を強弁するだろうか?強度のサイコパスの場合、表面的に善意に見えるものも、すべては狡知による演技の形でしかない。

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 住んでいるマンションが長期工事で大変だった。
 このひと月の間、断続的・追加的に何らかの工事がなされた。あの大家の男性は相も変わらず傲岸な態度で、こちらに背を向けたまま挨拶など当たり前。結果的に間違いだらけだった工事説明のレジュメを配る際も、こちらが紙をちゃんと掴む前に手放す。要は捨て与える感じ。工事に関する一定の説明は、管理者の法的な義務ではないかとも思うのだが、「捨て与える」瞬間には(快感により?)頬が微妙に緩んでいるように見えておぞましかったのだけど、もしかしたらこちらの一方的な思い込みだったかもしれないので断定は避けておく。あと、一連の工事によって水道の水が白濁していると訴えている他の住人をたまたま廊下で見掛けたのだが(至極正当な訴えだと思うのだが)、大家男性がなぜだか「蔑むように」睨みつけていた。睨まれた住人側は慌てて目をそらしうつむいたのだが...。??
 ちなみに、普段対応をしている大家女性陣はこれとはまったく正反対の態度なのであり、ひどいギャップなのだ。


 気が向いて、『阿Q正伝』を少し読み返したりしていた。
 阿Qの人物造形は謎である。当時の中国の国際的な立場を、戯画的にいち人物に押し込めたものなのだとすれば、実在しうる人物像として分析するのは、元々が的はずれなのかもしれない。阿Qは、知能の高くない自己愛性人格のようにも、アスペルガー症候群等を含む広汎性発達障害の何かのようにも見える。過剰な自己中心性を担うパターンは他にもあるだろうが、後半から捨て鉢のように泥棒や謀反にコミットするとしても、反社会性人格のようには思えない。かねて他者を陥れ快楽を得ようなどとはしないし、倫理的な共感性も一応有していると思う。売り言葉に買い言葉のような法螺と、悪意ある嘘とは、区別して考えるべきだ。魯迅もわざわざ文中で「阿Qは本来正しい人だ」と言明している。また、BPD、あるいは躁鬱や統合失調症のような感じでは明らかにない。
 自己愛性人格の誇大自己としてのナルシシズムは、比較的に現状肯定的な性質を持つような気がする。彼らは内的にはこの世界の(もしかしたらこの宇宙の?)王様なので、この世界を否定してしまうとある意味自己否定につながってしまう面が出てくるはずだからだ。それに対してアスペルガー的自己中心性は、妥協しない主観的正しさにおけるナルシシズムであり、社会常識と対峙する局面が大いにありうる。
 阿Qには確かにアスペルガー的な「自分ルール」に対するこだわりのようなものもみられる。例えば「精神上の勝利法」と表現されているもので、現に喧嘩で無残に負けているのに、これは子供に打たれたようなものなのだと思い込んで、むしろ勝ち誇って立ち去るというのである。この「精神上の勝利法」が周辺にばれて(というか自分で言っちゃうからなのだが)、それ自体がからかいの対象になったあとも、自分は「自(みずか)ら軽んじ自ら賤(いや)しむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ。状元(じょうげん)もまた第一人じゃないか。」などと独白する。状元とは、昔の中国で超難関試験とされた科挙合格者の、そのまた第一位の成績を修めた人物のことである。その状元を、単独性をてこに自分と同一視して、愚者どもには自分をけなす権利そのものがない、とのたまっているのである。この辺り、なかなかよくできた防衛機制的エスカレーションではある。
 しかし、これで阿Qが十分アスペルガー的なのかと言えば、そんな気は全然しない。もっと色んな自分ルールで充満している必要がある。阿Qの逸脱的な自分ルールは、防衛機制的な「精神上の勝利法」以外には顕著なものはそんなに見られないわけで(趙姓自称のディテールが語られないのが惜しい)、そのことの不自然さはどうしても残る。特に、物語の結末で阿Qが処刑される原因となる、革命党に同調するきっかけも酒を呑んでの思いつきの感が甚だしく、何か自分の強いこだわりを守るために「参加」した感じはゼロに近い。
 別様、依然として、自己愛性人格に似ている感じも並行するのだけど、自己重要感や自己特別視といった、仰々しさや恍惚感がそう一貫しているわけではなく、また他人を道具的に搾取する感じは希薄で、それらの点やはりそぐわない面が残る。ごく一部分だけ切り取り、複合型とか不完全型とか言ってもつまらない。
 振り出しに戻るわけじゃないが、阿Qの人物造形はなんだかよく分からない。阿Qは、探せば世界のどこかに実際にいそうな気もするし、いなそうな気もする。

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CIMG1082.jpg 先日京都府庁舎(建築指導課)に行く機会があったのだが、ひしめく机と崩れてきそうな資料でぎゅうぎゅう詰めで、公務なんだしもうちょっとスペースを与えてあげてもいいのではとか思ったりした。普段身の回りのことはだいたい区役所で済むため、市役所にも府庁舎にもそうは行く機会がない。

 IE9でMT4の管理画面を利用する方法が遅ればせながらわかった。既にネットに出ているやり方をやってみて上手くいかないためにほとんど諦めていたのだが、久しぶりに検索したらあっさり解決。下記IE7モードとして解釈させる追加タグをtmpl/cms/include/header.tmplのヘッドタグ内のJavascript関連より上に記述すればいいというだけ。
<meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=EmulateIE7" />
 追加が分かりやすいようにと同様タグをヘッドタグの終了直前に入れていたのが仇となっていたらしい。

 最近読んだピエール・ジャネの解離の症例集が印象深かった。
 解離の起源のひとつは、非現実的な(浅はかな・偏頗な・病的な)信念に、不幸にも生命や人生を全的にかけてしまった事態でありうる気がする。信念は誤っているがゆえに、現実と出会って破綻する運命に(大抵の場合は)あるが、幼少期から自己の全存在をかけて非現実的な信念を受容してきたような場合、破綻のショックに引き裂かれる程度も全的になると予想される。
 ちょっとした思い違いの露呈でも、めくらましに遭ったかのように、現実感覚がごく一時的に遠のくことが多分誰でもあるが、普通は程なく正常な感覚に戻るし再発したりもしない。解離は、そのような破綻が存在をより根底からかつ急激に引き裂くような場合に現象するのではないか。
 ジャネ以外にも新しめの解離関係の英語本を別に読んでいるが、その中に記されている妄想型統合失調症の母親に育てられた娘の症例にも、通底している気がする。母が恒常的な妄想にとらわれている場合、ごく幼い子供が、母親が話す妄想をどこまで信じないでいられるだろうか?悪いことに父性があまり機能していないような家庭で父親は防波堤になってくれない。少女が愛着する母親の異常性を自己から選り分け排除するまでには、おそらく相当以上に長い時間が必要かもしれない。その目処もおぼつかぬまま、思春期ころにやってくるある種の目覚めに際し、取り出し難く異物の混入した現実感覚がもはや全体として打ち捨てられてしまう。
 心的外傷と深いつながりがあるとされる解離関係の書籍は重い話が多く、読む側にある種の苦痛を強いる。しかし様々何かを考えさせないではいないかもしれない。

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 日本での生活マナーを外国人に教える際に、しばしば話題にのぼるのが「(主に和食で)麺類を食べるときには、音を立てても良い」とする慣習上の例外規定である(そういえば、麺だけとは言わず、日本人は食事を楽しむためくちゃくちゃ音を立てて食べるのだと、白人観光客の一団に向かって堂々説明しているベテラン風女性通訳を見たことがあるが、あの人は外国人に対してずっとああ説明し続けてきたのだろうか?)。とにかく、この「音を立てても良い」とする例外を説明する際に代表的に使われるロジックとして、麺類ではすする音が食欲や味わいを増すため許されるというのがあるだろうと思う。
 しかし、私個人はあの麺をすする音はそれ自体があまり好きではないし特に食欲もそそらない。むしろ全然逆なのである。と言っても私として麺をすすらないわけでもまたない。要はあまり音が立たないようにすするのである。
 そういうわけで、私は、麺類を食べる際に音を立てることは一般的な日本人と同じく容認しはするのだが、できるだけ立てないように善処すべきという派である。そのためのロジックとして私が信じているのは、以下のようなことである。
 つまり、和食の麺類のスープは、普通パスタソース等のようには粘度が高くないので、箸で麺をつまんで持ち上げ口に運ぶまでの短い時間のうちに、どんどん滴り落ちていってしまう。うどんや蕎麦(やラーメン)は、スープにこそ旨みが込められ、あるいは手間も費用も掛けられているわけで、できることならスープと麺が充分にからみあった状態のまま迅速に口の中まで持って行きたいというのが通常の欲求である。あくまでも作法のために食事があるのでないなら、多少は不快な音が立つことを許容してまでも、この際思い切って麺をすする方が食べ方として正しい...。
 一般に、麺をすする際に発生する音が下品な観点においてではなく味わいを引き立てるとされえているのは、条件付けによる反応である可能性が高いと思われる。迅速にすすることによってより多くのスープが麺とともに口に取り込まれるために食味が増し、その際には当然必ずあの「すすり音」が聞こえているので、双方を結びつける条件反射が形成されているのではないかと思う。これは、相関と因果の混同とも言い換えられるかもしれない。
 私は、上記のような条件反射あるいは混同が社会的に矯正されるべきものだと言いたいわけでは必ずしもないのだが、少なくとも、すすり音そのものについては、例外として許されてもなお、下品かつ粗野な意味合いを完全に失うわけではないだろうと思う。

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CIMG0829.jpg しつこい風邪で、どうにも低調な寒い春。
 写真は12日撮影。右上に僅かに見切れているのは手前にある枝垂桜。

 なんだかよく分からないのだけど、日本の一般会計の税収は、消費税新設後2年程度はやや上がって、その後漸減し始め、税率が3%から5%に増えた直後にはむしろ顕著に下がったようだ。もしも、このたび目論まれる消費税増税で税収が下がって、社会不安が増し、その他不景気やデフレスパイラルの末に(より本格的な)恐慌に突入したらひどい話だ。
 増税→景気低迷→税収減→更なる増税→更なる景気低迷→更なる税収減→??
 消費税増税では日本の公的社会保障制度を支えるのは原理的に無理であるとするような考え方もあるようだ。原理的に、である。つまり、どれだけ上げようと支えきれない、という意味である。将来積み立て方式あるいは放任主義にすることを念頭におく考え方なのか、消費萎縮や奇形的な人口ピラミッドのこともあるだろう、まがまがしい論である。
 仮に、日銀が毎年10兆円分ずつ市中等から国債を買い取って焼却炉にくべる作業を100年続けたら、1000兆円分の負債が「表面上は」きれいに無くなるわけだが、ちょっとでもそれをするとハイパーインフレになると主張する人もいるようだ。あるいはそんな気もするが、アメリカはすでにFRBの引き受け分がかなりの割合であり、高橋洋一氏などは自分こそが財務省当時に日銀引き受けを割り当てる担当だった等発言しているようで、程度によるのかもしれないが引き受け自体は日本でも既成の方策ではあるようだ。
 先日京大院の藤井聡教授がニコ生の『さくらじ』に出ていて面白かったが、ADHDのイメージが藤井氏の言動に一々重なってくるのをその都度ひっぺがさねばならないのが面倒だった。震災復興のこともあり藤井説のような大型公共事業による景気浮揚効果に対する期待がいや増すが、見終わって、色々威勢のいい藤井氏が財源論にはほぼまったく言及しなかったことに気が付いた。

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 BPDの特徴でもある「白か黒か思考」というのは、それに対応する現実的・合理的な要請が存在する場合は病理の表れとは言えない。不合理にも極端な行動や思考を好んでしてしまうからこそ病たりうるのである。したがって逆に言えば、誰かが表面上激しい内容の意思決定をしているとしても、それだけでは未だニュートラルな現象でしかない。
 近頃、またぞろワイドショー付きの精神科医が、新しく大阪市長になった橋下徹氏(的なもの??)をBPDだと「診断」したらしく、げんなりしないではいられない。
 橋下氏の判断や考え方が、そのパーソナリティーに由来する道理なき極端さによって支配されているかどうかを、政治的各論における彼の主張内容から帰納して導くなどは到底不可能なことである。現に選挙によって信任されている橋下氏の主張内容を、事実的なレベルにおいて論駁しないまま極端なものと決め付け、更にその原因をパーソナリティーの偏りに決め付けることは、屋上屋を重ねるがごとく、かなり正常ではない。誰かのことをBPDであると結論するには、(外的要素の影響が強い)仕事上の言動を分析するよりも、一定期間にわたる面談等による直接の人物把握こそがまずもって必要であるはずだが、そのようなことは当該精神科医によっては全く行われていないようだ。
 橋下氏にはBPDの共通的な表現のひとつとされる感情のスゥイングが全然見られないように思う。些細なことで(あるいは理由なく)激高したり自罰的になったりする不安定な感情のありようのことなのだが、メディアを通した断片的な印象のつなぎ合わせにすぎないとしても、少なくとも私は橋下氏のそういう状態を目撃した覚えがないし、誰でも似たような受け取り方だと思われるのだが。
 無論、実際につきあってみると全然印象の違う人物だということはありうることであって、だからこそ医師は一定期間直接面談する必要があるわけだけれど、それ以前のこととして、件の医師は診察しないで診断書を出すことを一般的に禁じている医師法第二十条の「倫理」に離背しているようにも思われる。
 あと、政治家は公人であり諸権利において一般人よりも制限を受ける部分があるべきであって、憶測含めとやかく言われるのも仕事の内という面は確かにあるだろう。けれども、元々精神活動を作品として公開している芸術家・小説家等に対する精神分析的批評や、直接面談することが不可能で人権への配慮も異質なものになる歴史上の人物に対する方法的な精神分析を、そのまま彼らに適用するなら自ずと間違うことになると思われる。


 『稲の日本史』(柳田國男ほか)読んでいて、内容的にはすこぶる興味深いのだけれど、なかなか進まず。読み手側の力不足のせいなのだろう。

 気温が低いとなぜだかエアコンのリモコンが利かないので、まず電気毛布でリモコンを温めねばならない。なんだこれは。

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 「日本」という国号は天智天皇の即位時に定められたらしいが、日いずる処という意味であるなら、当時として何より唐から見て太陽が昇る方角にある国という意味に違いなく、そんなには誇らしい何かではないかもしれない。わが国全体から見れば、日いずるのは太平洋からであるし、太陽そのものがわが国から湧出するわけではないことは言うまでもない。
 日本海の呼称問題で、言葉の意味として、「東海」も滑稽だが元来「日本海」も微妙である。わが国から見れば、日本海は、能登半島の東岸域等の特定地域を除いては、日の沈みゆく海でしかない。
 長く固有名として使用された場合に言葉の原義が希釈あるいは歪曲されるということはままあることだとしても、国としての呼び名が卑屈かつ自意識過剰っぽい意味を如何ほどか帯びているということは、中国の拡大期がまだまだ持続しそうな昨今において、多少なりとも、思い返されてもいいかもしれない。

 宮脇淳子によれば、漢字が表意文字でありうるのは、'market language'だからということのようだが、漢民族が商業民族として特徴的であるのはそうだとしても、厳に交易を前提としない古代文字言語というのも想定しづらいわけで、そんなには説得的ではない気がする。確かに、絵文字のようなものが、他の文字言語圏あるいは文字を持たない言語圏に対して、また同一言語圏の文盲者に対して、コミュニケーションツールとして一定の利便性を発揮するであろうとは思われる。しかし何か更なる付加的な条件が示されないと、漢字の特殊性を説明するには、十分でない。漢字文化圏を除くと世界に現存する文字言語のほとんどすべてが表音文字を使っているのだ。

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