思いつくままのブログ記事

 11日にサーバの更新費を払ったのでまた1年このサーバを維持することになる。まぁ、事前に申し立てなければ自動更新なんだけれども。しかし、ネット環境が根本的に変わらない限り基本ずっとこのままで行くのかもしれないなぁ。

 IE11の互換表示設定でMT4(このブログのプラットフォーム)が復活の様相。ダッシュボードが問題なく動作するようになってる気がする。IE10の互換表示ではうまく行ってなかったはずだが。うれしい誤算かもしれない。

 昨今「意欲」について考えたりするが、よく分からない。なんとなく。


 コフートの「水平・垂直分割」理論には一定の説得力があるとは思うのだけど、やはりよく言われるように、コフートの患者たちは軽度の精神障害者に偏っている気がする。一部については、ほとんど精神障害者と呼ぶべきではないくらいかもしれない。
 しかしだからといって、コフートの著作が面白くないわけではまたないのだが...。
 「水平分割」は母親からの不健全な拒絶の痕跡を、また「垂直分割」は母親からの不健全な肯定の痕跡を示すが、コフートは、そのような悪性の「分割」を基本的に人間的成長や変容性内在化によって乗り越えられるものだと前提することで、彼の(仮説的)理論を構築している。母親からの蒼古的な拒絶を癒やして削がれていた野心を蘇生し(対水平分割)、母親からの過剰な容喙が遠ざけた理想化された父親イマーゴの獲得をやりなおすことで(対垂直分割)、長らく手前で堰き止められ涸れていた水力発電ダムに水を戻すように、本来の機能を回復させようというわけである。
 水平分割は、幼いころの欲求不満の累積みたいなものにより生じ、これは旧来のフロイト的「抑圧」とほとんど同じようなものだとしても、それ自体としてやすやすと克服できるケースばかりとも思われない。「抑圧」が、それとして多様性と重篤さの幅を持つものであることはいまさら述べるまでもないことだからだ。
 垂直分割は、幼いころの理想像として父親が機能しなかったため、母親が子にこうなって欲しいとあくまで自分勝手に願うイメージの押し付け(やおだて)に子がとらわれ、自分自身の人生のための現実的な着地点を見いだせずにいる状態だ。これもなんだか思春期辺りに「よくある話」かもしれない。母親にかぎらず親が子に過剰な期待や偏った目標を押し付け、思春期の子が迷惑がるのは、かなりよくある光景ではないだろうか。確かに大人になってからでも、反抗期をやり直すような感じで、自己に侵食している親の歪んだ意志を排出して自分の人生のための適正な目標を見つけられる場合はあるかもしれない。しかし、そんな人は元から重篤な損傷を負っていない気がする。
 親からの自己愛転移の犠牲になった個人が、分割を取り払う補助をする「共感者(≒治療者)」の現れ程度で回復できたとしたら、、それはむしろ彼の軽症を表すものかもしれない。またコフートの分割理論の、普遍性ではなく、凡庸さや表層性を示すものかもしれない。
 ただ、フォローするわけではないが、概念の簡略化に価値がないとは思わない。そういう意味で、社会性をもたらす父親、自己愛をもたらす母親、みたいなシンプルで大枠の捉え方は時に基本に立ち返る感じでそれとして悪くはない。あとコフートの患者はわりとお金持ちというか社会的には一定の成功を収めた人も少なくないらしいが(作家でサディストのM氏はコフートの治療を通してそれまで迷っていたライティングの学校を自ら設立することを決意したりする)、そのせいなのかどうか、コフートの態度は対人的にも理論的にも謙虚で偉ぶるところがない。「精神科医は患者に天啓を与える」などと高言していたラカンとはかなり対照的である。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

 ネット上でたまたま自閉症児の出現率とその父親の年齢の関係についてのある「コピペ」を見かけたのだが、内容に違和感があったので日本語版Wikipediaの自閉症のページを眺めていたら、案の定(と言うべきか?)、そのコピペと同じ内容の記述を見つけた。

Wikipedia>自閉症>原因
なお近年の米国の研究で、父親が中高年のときに授かった子供である場合に新生児が自閉症になりやすいという知見がある。同研究によると、父親が40歳以上の新生児は、自閉症や関連の症例が30歳未満の父親の場合の約6倍で、30 - 39歳の父親と比較すると1.5倍以上であったとされている。一方、母親については、年齢が高い場合でも多少の影響を及ぼす可能性は排除できないものの、子供の自閉症に与える有意な影響は認められなかった[7]
 で、英語版WikipediaのPaternal age effect(父親の年齢効果)というページにちょうどAutism spectrum disorder(自閉症)の項目があったので、比較してみようと読んでいるうちに、どんどんげんなりしてしまった。同項目には日本語のWikipediaに紹介されている上掲の2006年に発表されたReichenberg の調査(正確には、米国の研究というより、米国の研究者によるイスラエルでの調査であるようだ)を含めて、同様の調査が12件ならべて紹介されているのだが、ほかの調査で数字を示しているところは父が35歳・40歳以上の場合の自閉症発生率が、だいたい20代の1.2~1.4倍付近に収まっていたのである(最大は、父親が10歳年を取るごとに22%ずつ危険度が上昇、という表現を採ったカリフォルニアの調査であろうか)。いずれにせよ、日本語Wikipedia(およびコピペ)が採用していた6倍という数字とかなり開きがあるわけだが、Reichenbergの調査に対して母集団で2倍、自閉症児数で10倍の規模で行われたDurkinらによる2008年の調査では、40代以上の父親は25-29歳の父親に対して1.4倍の自閉症発生率でしかなかったと主張している(ちなみに35-39歳の母親の場合も1.3倍の危険度で似たようなものだが、夫が同年代以上である場合が多いとも思われる)。
 コピペのネタ元と思しきReichenbergの調査は母集団は十万人を超えるものの肝心の自閉症児が110名しか含まれておらず(それで出生時に父親が40代以上の自閉症児は14名)、サンプルが少ないと統計結果が不正確になりやすいのは言うまでもないわけで、このように一件だけ突出した「倍率」をたたき出している比較的小規模な調査のみを信頼するのはどうなのか。
 父親の加齢と自閉症児の発生に一定の相関があること自体はほぼ共通した認識であるようだが、そこまで激しいものではないことは、身辺等から予感する人も少なくないかもしれない。まあ、ここでこんなこと書いてもどこぞのコピペは拡散してゆくだけなのだろうな。

 大学時代に所属していたサークルの部長が当時『父親がすでに60歳を超えている』と言っていたのを思い出した。おそらく父が40代の子供だったのだろうが、彼自身やや個性的ではあった気もするが、少なくとも自閉症その他精神疾患のような感じはしなかった。
 検索している内に、山本五十六は父親が56歳の時の子で、俳優(?)の河相我聞は父親が70歳くらいの時の子であるらしいことを知った。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

 もとより、人は健常であってすら十全な現実検討能力を持ち得ない存在であるかもしれないが、メンタルに異状をきたした人などは、一時的な逸脱に加えて逸脱した後の補正能力の弱さも著しいなどとも言われる。ある意味で、現実検討能力の欠如のありかたのバラエティの上にさまざまな精神疾患(や個性)があるとも言えるのかもしれないが、やはりナルシシストの現実検討能力の毀損ぐあいというのは神秘的というか、なんとも言えない独特なものがある。
 ナルシシストがその情緒において語ることというのは、冷静な第三者が聞くと、たいていしょうもないか支離滅裂なものでしかない。彼らは、身体的・社会的な力関係や様々な原因から生ずる誤解により、盲目的に肯定してくれる他者(弱者)に依存して自己の誇大なファンタジーを保とうとするわけだが、私がかねてより不思議だと思うのは『なぜ彼らはそういう自ら設定している循環自体の虚構性に気付けないのか?』ということなのである。もし分かった上でだと言うなら、『なぜそのままに見え透いているはずのファンタジーに没入し続けられるのか?』ということなのである。何より、そういう制約的な状況に依存したり、人間関係等を囲い込んでいるのは彼ら自身なのである。
 確かに、ナルシシストは「自己」が肥大するにつれて自意識が薄らぎ、どうしても自己自身を客観的に見ることができなくなっていると説明できなくもないのかもしれないが、自分自身が特定の条件に依存しているという事実すら知覚できなくなっているほどではないはずだ。自ら種明かしを知りつつそのフィクションに耽溺し続ける光景は、やはり、そこそこ異様であり、安易な共感を許さない面がある。無理にたとえるなら、誇大感をくすぐる娯楽にどこまでも執着するような感じであるのだろうか?いや、しかし...、もっと根底からの虚実混同とそれによる快感が彼らのファンタジーを持続させる防御壁になっているような気がするのだ。そこがよく分からない。
 ナルシシストはいつまでも目覚めない。その点において、彼らの現実検討能力が恒常的にうまく機能していない可能性が低くないと思われるわけだが、一般論として以上に、興味深いところだ...。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

 CGIサイトのアクセスはGW後半にはかなり落ち着いて現在はほぼ普段水準に戻ってしまった。アクセスがこのまま累進的に増加して大変なことになるのではないかという期待or不安は、いずれも水泡に...。サーバ側の細かい仕様を再確認してみたが、知らずに、国内では転送量制限に関してもっとも余裕のあるサーバのひとつを選んでいたようだ。目安となる上限値を超えてもすぐに追徴金が発生するとかでもなく、単に「503エラー」が表示されてアクセスが制限されることになるだけみたいだ。おそらくはその時点でサーバ会社側から何らかの連絡が来るのかもしれない。しかし、上限値は現在の最大値のおおよそ100倍だったのである。ここのサーバ、意外と強かった...。

CIMG1331.jpg GWは晴れ続きで外にいることが多かったが、体調的に絶好調ではなかったので、バランスをとりながらという感じだった。写真は雙ヶ岡頂から見た仁和寺(世界遺産)。雙ヶ岡には古墳時代の玄室があるみたいだったが、実際の場所はよく分からなかった。このあと下りて仁和寺に向かった。

 人間という生き物の不可知性に対してより謙虚になろうと昨今思っているのだが、自分なりに間違った方向ではないと感じている。しょせん真実など分かりはしない。だから、その上で「私的真実」みたいなものをたいせつにしてみたい。事実の超越性にのみとらわれると、打ちひしがれるというか、身動きが取れなくなってしまうので、行動や思考を未来へ投げかけるためにも、自分なりの「とっかかり」みたいなものが必要である。それを私的真実と名づけてみる。

 そういえば、世界中の精神科医が使っている手引書の新バージョンであるDSM-5が近日出版される。朝日新聞によるとアスペルガー症候群の定義が変更されたらしいが、独立した項目にするかどうかで長々議論のあった「自己敗北性人格障害」の扱いなどどうなったのだろう。もはやその芽は完全消滅ということなのだろうか。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

 自己愛というものはたぶん誰にでもあるものなので、おどろおどろしく「自己愛性人格障害」などと呼んでも、彼らが(やや?)極端なだけで誰でもどこかは似ているというところがあると思われる。なんというか『病者から学ぶ』論に反対する人もいるとは思うが、私はそうは思わない。病者と健常者の境界域は入り組んだグラデーションのようなものであってそんなに截然としたものではないと思う。彼らのように激しい偏りが恒常化していないとしても、何らかのストレスの重なりなどによって、一時的にであれ、似たような状態に陥ることが普通の人でもあるかもしれない。そういうときに彼らから派生する知恵に助けられることはないことではないだろう。
 実はという程でもないが、現在信頼されているひとつのサイコパスの診断基準は、自己愛性人格障害のそれと重複した箇所を持つ内容になっている。ロバート・ヘアという人の作ったサイコパスの診断基準なのだが、因子群の1から3まである内で、1の中のいくつかは自己愛性人格障害(および演技性人格障害)とほぼ共通のものだとされていると思う。
 また、境界性人格障害に関しても、カーンバーグ系の解釈によれば自己愛性人格障害は境界性人格障害と同根とされるべきものだし、コフート的には(和田秀樹の説明によればだが)自己愛性人格障害の極端化したほとんど精神病に近いものをボーダーラインと呼ぶとされているようだ。
 冒頭に述べたように自己愛は基本的に誰にでもあるものなので、メンタルになんらかの変調をきたした人物の自己愛になんからの異変があるとしても特に不思議はないといえるかもしれないが、関係の深い群として人格障害のクラスタBのどれかを書物で横断的によく見かける気はする。
 いずれにせよ、自己愛というものがある普遍性を持つキー概念であることは論を俟たない。未だなんだかよく分からない複雑怪奇なものでもあるが。

 分からないといえば、先日、子供の部活かなんかの指導者の過度に威圧的な態度について電話で誰かに相談してる知らない中年女性が隣にいて、私はたまたま彼女のちょうど真正面に座っていたのだが、彼女がしゃべるうちにだんだん自らの怒りで興奮してきていて「もう時間だから」とあえて途中で電話を切って立ち去ろうとしたとき、私と眼が合ってしまってなぜかその瞬間に「きっ」と睨まれてしまった。慣性あるいは勢いというべきものか、部活の指導者に向けられるべき敵意が転移のような形で私に向けられたのか、それとも実際に私の態度が何か気に食わなかったのか...。
 おそらくそのはっきりした答えを知ることは永遠にないのだろう。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

CIMG1249.jpg このところ夕食後に必ずバナナ(トリプトファン+ビタミンB6+マグネシウム→セロトニン→メラトニン)を摂るようにしているのだが、格段に深く眠れるようになり、ほとんど新生感。たったこんなことでという感じだが、しかし、ということは、これまでかなり浅い睡眠だったことの証左...。
 指先に出ていた肌荒れ含め、また長引いていた風邪含め、ようやく完全復調という感じ。

 最近『エレンの歌3番』をよく流しているのだけど(本来賛美歌ではなく、劣勢の戦士を鼓舞する不穏なる戦いの歌であるようだけれども、やはりどこか母胎回帰的な...)、YOUTUBEにあげられてるソース不明のバージョンがいいのでそちらばかり聴いている。YOUTUBEは出来れば動画広告をやめてほしいが、考えてみればむしろこれまでどうやって収益を上げていたのか不思議な気もする。というか大本のGoogle自体の収益モデルがよく分からない。クロールデータの供与と広告による収益が主らしいが、なんだか釈然としない。

 先掲のコフートのKindle書籍に作家でサディストの自己愛パーソナリティーの症例が出てくる。作家氏は、特にそれを望まぬ妻にSM行為を強要するかなりの人なのだが、彼の持つ過剰な自己顕示欲に対するコフートの解釈にややはっとさせられた。つまり、幼少期における母なるものとの不調和あるいはその共感的反応の欠乏が、のちの「もっと自分を見て!」という恒常的欲求(不満)につながっているというのだ。作家氏のケースでは、幼時怪我をした自分の血液が兄弟の衣服に付着して、母が自分ではなく兄弟のほうのみを病院に連れて行ったエピソードが紹介されている(後刻なんとか気付いてもらえたようだが)。怪我の程度は書かれていないが、基調としての母親の無関心・愛情の偏在がこれ以外の情報によっても補強されうるものだったと考えられるようだ。
 母に顧みられないことの欲求不満が、のちの病的な自己顕示欲に「必ず」つながるとは言えないのではないかという疑問は、誰でも思いつくかもしれないが、そこの微妙で重要な分かれ目についても、コフートはヒントを出している。つまり、母親の無関心が未だ完全に絶望的なものとはなっていないという要件である。彼女が十分で健全な反応を示す希望がちらつくエサのように少しは残っているということである。「『もっと見て』もらえれば母からまともな反応が返ってくるかもしれない」という希望が完全には失われていない、ある意味で生殺しのような中途半端な状態のまま人格に定着してしまった成り立ちを、仮説的解釈としてコフートは示していることになる。
 たぶんこれは、先月紹介したGlen O. Gabbardのサブカテゴリのどちらにも帰属しないか、折衷的なケースに当たるようなものかもしれないが、これはこれで典型としてのリアリティーを持っていると言わざるを得ないと思った。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

 自己評価や自尊感情の高すぎる人も、本来ありのままの自分を再発見・再評価すべきなのだが、自己愛性人格などはベトナム戦争に行っても最もストレス耐性が強い群だったりするほどなので(マリー・イルゴイエンヌからの孫引き)、周りに迷惑をかけることは頻繁でも、生命力が強くネガティヴな心的状況になりにくいとされると思う。ただ本人として悩む場合はそれなりにあるらしい。
 彼らは、自分が思うとてもすばらしい自分を世間が認めないので、多かれ少なかれ肯定されることを過剰に希求するのであり、メランコリー親和型のパーソナリティーのようなごく低位からなされる存在の肯定の希求などとはまったく別の性質を持っている。
 ただ、自己愛性人格も一筋縄ではなく、ふたつのサブカテゴリに分ける考え方がある。ひとつは無自覚型であり、これはほとんど非現実的に誉めそやされて育ってしまったように見える場合で、無意識的な自己陶酔をしている。ふたつめは過剰警戒型で、そうは現実から褒めてもらえなかったので逃避的に自らを称揚する習慣を身に付けてしまった場合であって、やや奥まった意識的な自己陶酔と言っていいかもしれない。ただ、これらは自己愛性人格内のふたつの極として理念的に捉えたほうがいいような気がする。完全なる無自覚型はもはや人格障害の域を超えてると思われる??

Glen O. Gabbardによる自己愛性人格障害のサブタイプ※1
無自覚型 過剰警戒型
他人のリアクションを気にしない 他人のリアクションを非常に気にする
傲慢で攻撃的 内気で恥ずかしがり屋、あるいは控えめ
自己陶酔 自分よりも他人に注意が向いている
注目の的になりたい 注目の的になることを避けたい
送り手ではあるが受け手ではない 見解や批判の証言として他人に注意深く耳を傾ける
他人によって傷つけたれたという感覚が見かけ上鈍い たやすく傷つき、羞恥や屈辱を感じやすい

 いずれにせよ、自己に対する評価が偏っているので、何か普通でない方法で現実との折り合いを付けなければならないわけだが、中には、自分が思う自分として世間に評価されるために非常に真面目にがんばる人もあるらしく、ただただ傲慢でいやな人ばかりというわけでもないようだ。とは言え、追い求めているものは究極には全能感に近いものなので、仮にそれなりに社会的に成功できたとしても、根本に空虚を抱えたままであるとされるようだ。

※1 Glen O. Gabbard 『Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice Fourth Edition』2005 p487
| コメント(0) | トラックバック(1) |  

 自己評価や自尊感情の低い人は、できることなら少なくとも最低限の水準までは、肯定してくれる他者に依存するのではなくて自分で自分を肯定できるようになるのが正攻法だと思うけれど、なかなか簡単ではない場合もあるかもしれない。
 たとえば彼らに対し、カーンバーグならあくまで他人としてサポートなのだが、コフートは違うようだ。
 コフートは、人の依頼心の根本的なぬぐいがたさを強調する。確かに、普通人は一人では生きてゆけず、誰かと感情を分かち合いながら生きてゆかざるをえない生き物なのだろう。しかし、心のほとんど原初的と言っていい基礎部分を、大人になってから他者に依存して維持するというのは、かなり危険なことだと私は思う。それは本来親子関係を通して幼少期に完成していなければならなかったはずの部分なのであり、事後的な人間関係による補完は健全な形ではとても難しいものである気がする。幸福でなかった親子関係からできる限り距離を取り、いつか不当に否定されたありのままの自分を覚悟として自分で肯定してしまうのがひとつの方法になるのではないかと思う。そういう内的なやり直しがどこまで有効かつ適切に実現できるかはかなり個別の事情に左右されるかもしれないが、共依存のような病的な依存関係に陥らないためにも、できるだけ自助努力によって最低限の自尊感情の回復を目指すべきだ。
 たとえば、(人種)、性別、容姿、能力、自分史、基礎的欲求、etc...を肯定してしまうといいと思う。

| コメント(0) | トラックバック(1) |  

 なんだか体調がすぐれないと思っていたら、また風邪を引いてしまった。

 結局『The Restoration Of The Self』読み始めたが、急いで読む本でもないので、無理せず暇なときに少しずつ読んでゆく。面白くなってきたら勝手に加速するであろう。

 利他や喜びの分かち合いはそれとして、前提というか土台というか低次というか、目の前の現実が、自分が働きかけ作用することによって(たといささいであっても)変化する喜びというものがあるような気がする。うまく言えないが、なんでもいい、何かが動くとか変質するとか形を変えるとか...、能動性の基礎となる喜び。特に観察的な意識に囚われている時には、人はどこかぬけがらのようになるというか、そういう自己を主体とした感覚を忘れがちになるもののような気がする。ともすると観察する意識に囚われがちな私としては、「能動の喜び」を肝に銘じよう。

 中国軍のレーダー照射。戦争はいやだなあ。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

 今週初めにデスクトップPCのOSを再インストールする羽目に陥ってしまった。
 古いフリーソフトをWindows7上で動かしたのが事の発端だと思うのだが、CPU使用率が当該ソフトを閉じても100%から戻らなくなり、もちろんそれ自体も良くないのだが、たまたま同時に開いていたブラウザのフラッシュプレイヤーの調子も連動して悪くなって、何とか改善しないかとフラッシュの入れ替えやAMDのビデオドライバを最新にしたりしていたら、OS起動時に必ず「kdbsync.exeは動作を停止しました」というメッセージが出るようになってしまい、クリーンインストールする決断に至った。
 この、ビデオドライバソフトによる「kdbsync.exeは動作を停止しました」というメッセージは、ある種のアップデートの失敗のようで、検索するといくつか関連・類似がヒットする。改善策としては、部分機能をアンインストールする方法とレジストリをいじる方法があるようだったが、潜在的に事態が複雑化していると思えたのでどちらも採らず、根本治療することにした。
 その他、Microsoft Security Essentialsの「フル」モードで2度スキャンして検出ゼロだったので、ウィルス等が原因であることは考えにくい。
 HDDフォーマット前に、クロスケーブル経由でノートPCにほとんどのデータを退避。LANボードもケーブルも100Mbpsには対応していたのだが、もう一段上の1Gbpsが欲しいところだった。ただ、あまり高速になるとHDDの処理速度等も転送速度に関わってくるかもしれない...。

TheRestorationOfTheSelf.jpg Kindleストアでハインツ・コフートの『The Restoration Of The Self』を買ったので、まずは予習かたがた和田秀樹の新書を2冊読んでいた。和田秀樹でコフートに出会う人は少し不幸な気もするが、どうなのだろう。私は『The Analysis Of The Self』の邦訳と他の作家による『コフート理論とその周辺』という入門書をすでに(漫然とだが)読んでいたので、コフート派・和田氏に対する名状しがたい違和感を保持し続けることができた。と言っても、相対的に、和田氏は「それなり」にはまともな人だとは思った。少なくとも商業マスコミに出てくる精神科医に限れば幾分ましなほうであるかもしれない。(私は商業マスコミによく出る精神科医は本業で問題を抱えてるのでは?と疑っているところがあるので要注意)
 このブログからも推察できるかもしれないが、私はどちらかと言うとクライン―カーンバーグのラインを素人なりに好んできた。ただ、コフートが嫌いなわけでは特になく、独立峰的なイメージを持っている。
 予習は終えてさあ本体を読み始めようと思っているが、どういうわけか気が進まない。
 利他とか、喜びを他人と分かち合うとか、そういったことが最近個人的に気になっているのだが、コフートではあまりいい「化学変化」を期待できない気もする。しかしまあ、あまり無用な先入観を持つのはよそう。

| コメント(0) | トラックバック(0) |  

今日の日付

月別 アーカイブ

※随時加筆修正する場合があります。

※コメント・サインイン用のOpenIDは、GoogleYahoo! JAPANmixiはてなlivedoor等のアカウントに、あらかじめ付属しているものがあります。

Powered by Movable Type 4.22-ja