思いつくままのブログ記事

 強調表現などのためにわざと語順を崩している英文を日本語にするのは難しい。日本語として自然に読めるようにするためには、そういったニュアンス的なものは捨象せざるを得ない場合があると思う。しかしホントは厳密には別の意味になっている。何か一石二鳥の表現があればいいんだけども...。

 英単語の"integrity"は「正直」という意味のようだけど、語源的には『手を付けていない状態』ということであるらしい。韓国人が著した英単語の学習本(の邦訳)に書いてあったのだが、アダムとイヴがリンゴを食べる前の無垢な状態を念頭に、"integrity"を捉え、だから「西洋人は性善説なのだ」と述べていた。
 非常に違和感あるわけだが、韓国では西洋は性善説の文化圏として理解されているのだろうか。それともこの著者であるムン・ドク氏のみの個人的意見なのだろうか。(悪い日本人をやっつけてくれた?)西洋人が性善説に基づいているように見える韓国人というのも、想像するとちょっとショッキングだ。しかし、では彼ら自身は何なのだろう。

 孟子の言う性善説は、人間が倫理的逸脱や犯罪をおかさないということを前提にする考えではない。あくまで「兆し」としての良心が誰にでもあるという考えなのだ。よく役人や政治家が、法律や行政の不備を覆い隠すために『性善説でやってきたので』というようなことを言うが、あれはあんまり意味が無いというか、言い訳になっていない。仮に、誰にでも良心の兆しがあるとしても、その上で現に誰もが間違うというのが、本来の性善説なのだ。

 孟子が現代に生きていて、サイコパスのような先天的に共感性が失われている(扁桃体に何らかの異状があるという説が有力らしいが)人格に出会ったら何と言うだろうと思う。それでも兆しとしての良心の存在を強弁するだろうか?強度のサイコパスの場合、表面的に善意に見えるものも、すべては狡知による演技の形でしかない。

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 住んでいるマンションが長期工事で大変だった。
 このひと月の間、断続的・追加的に何らかの工事がなされた。あの大家の男性は相も変わらず傲岸な態度で、こちらに背を向けたまま挨拶など当たり前。結果的に間違いだらけだった工事説明のレジュメを配る際も、こちらが紙をちゃんと掴む前に手放す。要は捨て与える感じ。工事に関する一定の説明は、管理者の法的な義務ではないかとも思うのだが、「捨て与える」瞬間には(快感により?)頬が微妙に緩んでいるように見えておぞましかったのだけど、もしかしたらこちらの一方的な思い込みだったかもしれないので断定は避けておく。あと、一連の工事によって水道の水が白濁していると訴えている他の住人をたまたま廊下で見掛けたのだが(至極正当な訴えだと思うのだが)、大家男性がなぜだか「蔑むように」睨みつけていた。睨まれた住人側は慌てて目をそらしうつむいたのだが...。??
 ちなみに、普段対応をしている大家女性陣はこれとはまったく正反対の態度なのであり、ひどいギャップなのだ。


 気が向いて、『阿Q正伝』を少し読み返したりしていた。
 阿Qの人物造形は謎である。当時の中国の国際的な立場を、戯画的にいち人物に押し込めたものなのだとすれば、実在しうる人物像として分析するのは、元々が的はずれなのかもしれない。阿Qは、知能の高くない自己愛性人格のようにも、アスペルガー症候群等を含む広汎性発達障害の何かのようにも見える。過剰な自己中心性を担うパターンは他にもあるだろうが、後半から捨て鉢のように泥棒や謀反にコミットするとしても、反社会性人格のようには思えない。かねて他者を陥れ快楽を得ようなどとはしないし、倫理的な共感性も一応有していると思う。売り言葉に買い言葉のような法螺と、悪意ある嘘とは、区別して考えるべきだ。魯迅もわざわざ文中で「阿Qは本来正しい人だ」と言明している。また、BPD、あるいは躁鬱や統合失調症のような感じでは明らかにない。
 自己愛性人格の誇大自己としてのナルシシズムは、比較的に現状肯定的な性質を持つような気がする。彼らは内的にはこの世界の(もしかしたらこの宇宙の?)王様なので、この世界を否定してしまうとある意味自己否定につながってしまう面が出てくるはずだからだ。それに対してアスペルガー的自己中心性は、妥協しない主観的正しさにおけるナルシシズムであり、社会常識と対峙する局面が大いにありうる。
 阿Qには確かにアスペルガー的な「自分ルール」に対するこだわりのようなものもみられる。例えば「精神上の勝利法」と表現されているもので、現に喧嘩で無残に負けているのに、これは子供に打たれたようなものなのだと思い込んで、むしろ勝ち誇って立ち去るというのである。この「精神上の勝利法」が周辺にばれて(というか自分で言っちゃうからなのだが)、それ自体がからかいの対象になったあとも、自分は「自(みずか)ら軽んじ自ら賤(いや)しむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ。状元(じょうげん)もまた第一人じゃないか。」などと独白する。状元とは、昔の中国で超難関試験とされた科挙合格者の、そのまた第一位の成績を修めた人物のことである。その状元を、単独性をてこに自分と同一視して、愚者どもには自分をけなす権利そのものがない、とのたまっているのである。この辺り、なかなかよくできた防衛機制的エスカレーションではある。
 しかし、これで阿Qが十分アスペルガー的なのかと言えば、そんな気は全然しない。もっと色んな自分ルールで充満している必要がある。阿Qの逸脱的な自分ルールは、防衛機制的な「精神上の勝利法」以外には顕著なものはそんなに見られないわけで(趙姓自称のディテールが語られないのが惜しい)、そのことの不自然さはどうしても残る。特に、物語の結末で阿Qが処刑される原因となる、革命党に同調するきっかけも酒を呑んでの思いつきの感が甚だしく、何か自分の強いこだわりを守るために「参加」した感じはゼロに近い。
 別様、依然として、自己愛性人格に似ている感じも並行するのだけど、自己重要感や自己特別視といった、仰々しさや恍惚感がそう一貫しているわけではなく、また他人を道具的に搾取する感じは希薄で、それらの点やはりそぐわない面が残る。ごく一部分だけ切り取り、複合型とか不完全型とか言ってもつまらない。
 振り出しに戻るわけじゃないが、阿Qの人物造形はなんだかよく分からない。阿Qは、探せば世界のどこかに実際にいそうな気もするし、いなそうな気もする。

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CIMG1082.jpg 先日京都府庁舎(建築指導課)に行く機会があったのだが、ひしめく机と崩れてきそうな資料でぎゅうぎゅう詰めで、公務なんだしもうちょっとスペースを与えてあげてもいいのではとか思ったりした。普段身の回りのことはだいたい区役所で済むため、市役所にも府庁舎にもそうは行く機会がない。

 IE9でMT4の管理画面を利用する方法が遅ればせながらわかった。既にネットに出ているやり方をやってみて上手くいかないためにほとんど諦めていたのだが、久しぶりに検索したらあっさり解決。下記IE7モードとして解釈させる追加タグをtmpl/cms/include/header.tmplのヘッドタグ内のJavascript関連より上に記述すればいいというだけ。
<meta http-equiv="X-UA-Compatible" content="IE=EmulateIE7" />
 追加が分かりやすいようにと同様タグをヘッドタグの終了直前に入れていたのが仇となっていたらしい。

 最近読んだピエール・ジャネの解離の症例集が印象深かった。
 解離の起源のひとつは、非現実的な(浅はかな・偏頗な・病的な)信念に、不幸にも生命や人生を全的にかけてしまった事態でありうる気がする。信念は誤っているがゆえに、現実と出会って破綻する運命に(大抵の場合は)あるが、幼少期から自己の全存在をかけて非現実的な信念を受容してきたような場合、破綻のショックに引き裂かれる程度も全的になると予想される。
 ちょっとした思い違いの露呈でも、めくらましに遭ったかのように、現実感覚がごく一時的に遠のくことが多分誰でもあるが、普通は程なく正常な感覚に戻るし再発したりもしない。解離は、そのような破綻が存在をより根底からかつ急激に引き裂くような場合に現象するのではないか。
 ジャネ以外にも新しめの解離関係の英語本を別に読んでいるが、その中に記されている妄想型統合失調症の母親に育てられた娘の症例にも、通底している気がする。母が恒常的な妄想にとらわれている場合、ごく幼い子供が、母親が話す妄想をどこまで信じないでいられるだろうか?悪いことに父性があまり機能していないような家庭で父親は防波堤になってくれない。少女が愛着する母親の異常性を自己から選り分け排除するまでには、おそらく相当以上に長い時間が必要かもしれない。その目処もおぼつかぬまま、思春期ころにやってくるある種の目覚めに際し、取り出し難く異物の混入した現実感覚がもはや全体として打ち捨てられてしまう。
 心的外傷と深いつながりがあるとされる解離関係の書籍は重い話が多く、読む側にある種の苦痛を強いる。しかし様々何かを考えさせないではいないかもしれない。

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 日本での生活マナーを外国人に教える際に、しばしば話題にのぼるのが「(主に和食で)麺類を食べるときには、音を立てても良い」とする慣習上の例外規定である(そういえば、麺だけとは言わず、日本人は食事を楽しむためくちゃくちゃ音を立てて食べるのだと、白人観光客の一団に向かって堂々説明しているベテラン風女性通訳を見たことがあるが、あの人は外国人に対してずっとああ説明し続けてきたのだろうか?)。とにかく、この「音を立てても良い」とする例外を説明する際に代表的に使われるロジックとして、麺類ではすする音が食欲や味わいを増すため許されるというのがあるだろうと思う。
 しかし、私個人はあの麺をすする音はそれ自体があまり好きではないし特に食欲もそそらない。むしろ全然逆なのである。と言っても私として麺をすすらないわけでもまたない。要はあまり音が立たないようにすするのである。
 そういうわけで、私は、麺類を食べる際に音を立てることは一般的な日本人と同じく容認しはするのだが、できるだけ立てないように善処すべきという派である。そのためのロジックとして私が信じているのは、以下のようなことである。
 つまり、和食の麺類のスープは、普通パスタソース等のようには粘度が高くないので、箸で麺をつまんで持ち上げ口に運ぶまでの短い時間のうちに、どんどん滴り落ちていってしまう。うどんや蕎麦(やラーメン)は、スープにこそ旨みが込められ、あるいは手間も費用も掛けられているわけで、できることならスープと麺が充分にからみあった状態のまま迅速に口の中まで持って行きたいというのが通常の欲求である。あくまでも作法のために食事があるのでないなら、多少は不快な音が立つことを許容してまでも、この際思い切って麺をすする方が食べ方として正しい...。
 一般に、麺をすする際に発生する音が下品な観点においてではなく味わいを引き立てるとされえているのは、条件付けによる反応である可能性が高いと思われる。迅速にすすることによってより多くのスープが麺とともに口に取り込まれるために食味が増し、その際には当然必ずあの「すすり音」が聞こえているので、双方を結びつける条件反射が形成されているのではないかと思う。これは、相関と因果の混同とも言い換えられるかもしれない。
 私は、上記のような条件反射あるいは混同が社会的に矯正されるべきものだと言いたいわけでは必ずしもないのだが、少なくとも、すすり音そのものについては、例外として許されてもなお、下品かつ粗野な意味合いを完全に失うわけではないだろうと思う。

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CIMG0829.jpg しつこい風邪で、どうにも低調な寒い春。
 写真は12日撮影。右上に僅かに見切れているのは手前にある枝垂桜。

 なんだかよく分からないのだけど、日本の一般会計の税収は、消費税新設後2年程度はやや上がって、その後漸減し始め、税率が3%から5%に増えた直後にはむしろ顕著に下がったようだ。もしも、このたび目論まれる消費税増税で税収が下がって、社会不安が増し、その他不景気やデフレスパイラルの末に(より本格的な)恐慌に突入したらひどい話だ。
 増税→景気低迷→税収減→更なる増税→更なる景気低迷→更なる税収減→??
 消費税増税では日本の公的社会保障制度を支えるのは原理的に無理であるとするような考え方もあるようだ。原理的に、である。つまり、どれだけ上げようと支えきれない、という意味である。将来積み立て方式あるいは放任主義にすることを念頭におく考え方なのか、消費萎縮や奇形的な人口ピラミッドのこともあるだろう、まがまがしい論である。
 仮に、日銀が毎年10兆円分ずつ市中等から国債を買い取って焼却炉にくべる作業を100年続けたら、1000兆円分の負債が「表面上は」きれいに無くなるわけだが、ちょっとでもそれをするとハイパーインフレになると主張する人もいるようだ。あるいはそんな気もするが、アメリカはすでにFRBの引き受け分がかなりの割合であり、高橋洋一氏などは自分こそが財務省当時に日銀引き受けを割り当てる担当だった等発言しているようで、程度によるのかもしれないが引き受け自体は日本でも既成の方策ではあるようだ。
 先日京大院の藤井聡教授がニコ生の『さくらじ』に出ていて面白かったが、ADHDのイメージが藤井氏の言動に一々重なってくるのをその都度ひっぺがさねばならないのが面倒だった。震災復興のこともあり藤井説のような大型公共事業による景気浮揚効果に対する期待がいや増すが、見終わって、色々威勢のいい藤井氏が財源論にはほぼまったく言及しなかったことに気が付いた。

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 BPDの特徴でもある「白か黒か思考」というのは、それに対応する現実的・合理的な要請が存在する場合は病理の表れとは言えない。不合理にも極端な行動や思考を好んでしてしまうからこそ病たりうるのである。したがって逆に言えば、誰かが表面上激しい内容の意思決定をしているとしても、それだけでは未だニュートラルな現象でしかない。
 近頃、またぞろワイドショー付きの精神科医が、新しく大阪市長になった橋下徹氏(的なもの??)をBPDだと「診断」したらしく、げんなりしないではいられない。
 橋下氏の判断や考え方が、そのパーソナリティーに由来する道理なき極端さによって支配されているかどうかを、政治的各論における彼の主張内容から帰納して導くなどは到底不可能なことである。現に選挙によって信任されている橋下氏の主張内容を、事実的なレベルにおいて論駁しないまま極端なものと決め付け、更にその原因をパーソナリティーの偏りに決め付けることは、屋上屋を重ねるがごとく、かなり正常ではない。誰かのことをBPDであると結論するには、(外的要素の影響が強い)仕事上の言動を分析するよりも、一定期間にわたる面談等による直接の人物把握こそがまずもって必要であるはずだが、そのようなことは当該精神科医によっては全く行われていないようだ。
 橋下氏にはBPDの共通的な表現のひとつとされる感情のスゥイングが全然見られないように思う。些細なことで(あるいは理由なく)激高したり自罰的になったりする不安定な感情のありようのことなのだが、メディアを通した断片的な印象のつなぎ合わせにすぎないとしても、少なくとも私は橋下氏のそういう状態を目撃した覚えがないし、誰でも似たような受け取り方だと思われるのだが。
 無論、実際につきあってみると全然印象の違う人物だということはありうることであって、だからこそ医師は一定期間直接面談する必要があるわけだけれど、それ以前のこととして、件の医師は診察しないで診断書を出すことを一般的に禁じている医師法第二十条の「倫理」に離背しているようにも思われる。
 あと、政治家は公人であり諸権利において一般人よりも制限を受ける部分があるべきであって、憶測含めとやかく言われるのも仕事の内という面は確かにあるだろう。けれども、元々精神活動を作品として公開している芸術家・小説家等に対する精神分析的批評や、直接面談することが不可能で人権への配慮も異質なものになる歴史上の人物に対する方法的な精神分析を、そのまま彼らに適用するなら自ずと間違うことになると思われる。


 『稲の日本史』(柳田國男ほか)読んでいて、内容的にはすこぶる興味深いのだけれど、なかなか進まず。読み手側の力不足のせいなのだろう。

 気温が低いとなぜだかエアコンのリモコンが利かないので、まず電気毛布でリモコンを温めねばならない。なんだこれは。

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 「日本」という国号は天智天皇の即位時に定められたらしいが、日いずる処という意味であるなら、当時として何より唐から見て太陽が昇る方角にある国という意味に違いなく、そんなには誇らしい何かではないかもしれない。わが国全体から見れば、日いずるのは太平洋からであるし、太陽そのものがわが国から湧出するわけではないことは言うまでもない。
 日本海の呼称問題で、言葉の意味として、「東海」も滑稽だが元来「日本海」も微妙である。わが国から見れば、日本海は、能登半島の東岸域等の特定地域を除いては、日の沈みゆく海でしかない。
 長く固有名として使用された場合に言葉の原義が希釈あるいは歪曲されるということはままあることだとしても、国としての呼び名が卑屈かつ自意識過剰っぽい意味を如何ほどか帯びているということは、中国の拡大期がまだまだ持続しそうな昨今において、多少なりとも、思い返されてもいいかもしれない。

 宮脇淳子によれば、漢字が表意文字でありうるのは、'market language'だからということのようだが、漢民族が商業民族として特徴的であるのはそうだとしても、厳に交易を前提としない古代文字言語というのも想定しづらいわけで、そんなには説得的ではない気がする。確かに、絵文字のようなものが、他の文字言語圏あるいは文字を持たない言語圏に対して、また同一言語圏の文盲者に対して、コミュニケーションツールとして一定の利便性を発揮するであろうとは思われる。しかし何か更なる付加的な条件が示されないと、漢字の特殊性を説明するには、十分でない。漢字文化圏を除くと世界に現存する文字言語のほとんどすべてが表音文字を使っているのだ。

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 このところギリシャ神話を読んでいる。神話はおどろおどろしい面もあるのだが、なんだか癒される。中世的な「モラルの薄雲」が空を覆ってしまう以前に描かれた物語群には人間の欲望の原像が描かれているだろう。

 あとオペラの「魔弾の射手」をDVDで観た。道具立てが現代風に弓矢ではなく銃に置き換えられていた。恋人アガーテに向けられた弾丸が隠者(修験者?)のまじないによって避けられるが、みわざあるいはしるしと言うべきか、キリスト教的な仕掛けとして捉えていないと、こんな簡単に避けられるものの何が魔弾なのかと思ってしまうかもしれない。
 歌唱の巧拙というものは残酷で、処女アガーテはほとんどおばあさんみたいな歌手が演じているのだが端役・脇役より明らかに歌が上手いので認めざるを得ない。脇役でも登場機会の多いひとりの中年女性歌手は準主役級とも言うべき感じで、それなりの評価を得ているのだろう、単独で歌うシーンもあったのだが、客からブラボーを貰うことはなかった。特に技術を要求される箇所になるとどうしても微妙によれてしまう。それはおそらく更なる訓練で克服されるような種類のものではなく、つまりは彼女は彼女の人生を歩んでゆくほかないのだと思われた。誰でも自分の限界の中で生きて行かざるを得ないものに違いないが、舞台芸術の共時性はそのことをあからさまにするかもしれない。

 今使っている私のデジカメEXS12は撮影モードが(オートとかマクロとか人物とか夜景とか含め)全部で42種類あるみたいなのだが、普段使っているのは5~6種類くらいのもので、他のモードについてよく分かっていなかったのが今回の敗因だ。もはやあとの祭りではあるが、どうも「高感度」モードというのにすべきだったようで、事後に試し撮りしたらそこそこうまく撮れた。なぜだか分からないが夜景モードは使える明るさのレンジが狭いようだ。オートも夜景に弱い。
 しかし、セピア色の室内風景のアイコンと「高感度」のイメージはあまり結びつかないと思うのだが。どうなのか。前のデジカメは全部オートで夜景もわりと手軽に撮れたと思うんだけどなあ。普段撮りのデジカメは撮影モードを多くするよりオートの性能に気を使って欲しい。

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CIMG0587.jpg 今年も山鉾巡行が近付き、すでに数日前から山や鉾がそこここに待機している。写真は奥が黒主山で、手前はここぞとばかりに自己宣伝に努める帯屋(?)の展示染物。このところ連日35℃程度まで気温が上昇。


 ノースロップ・フライとは(綴りも違って)何らの縁戚関係もないらしいイエール大学フライ教授の講義動画は、YouTubeですでに半分くらい視聴した(or字幕をなんとか読んだ)のだが、この人物なかなか曲者というか、黄色人種やユダヤ人、非キリスト教徒(?)に対して何か胸に一物あるのではと疑わなくもないわけなのだが、いわゆるデリダ登場の衝撃が生み出したイエール学派のまさに震源地に長く居たということもあり、講義内容はなかなか面白い。デリダ自体とは微妙な距離感で(やや嫌ってる?)、むしろイエール学派の元締めであるポール・ド・マンの方をこそ崇拝している感じかもしれない。
Introduction to Theory of Literature with Paul H. Fry.jpg さきの自作のCGIスクリプトを使ってダウンロードした全26回分の講義の字幕を整理してまとめ、表紙や目次をつけ、それっぽくPDFの電子書籍のようにしてみた。結局全体で200ページ(80万字位)になって、おそらく平均的なペーパーバック一冊と同じくらいの文章量になっている。講義によっては曜日が違ったりしている感じの発言も中にあり、シラバスとしてどうなっているのかよく分からないのだが、量的に見て通年の講義と同等であろうと思う。文字に起こしてくれているのは学生アルバイトとかなのだろうか、たまに間違いがあったりするのはご愛嬌。
 一口に日本の大学の文学理論の授業の水準と言っても、かなり幅があるに違いないけれど、たとえば小説風に大学の文学理論の講義風景を紹介した筒井康隆の『文学部唯野教授』などと較べると、格段に(主観的に最低2レベルくらいは)フライ教授の講義の方が勝っているような気がする。教える側だけでなく学生の質が高いということもあるのだろうが、ただフライ教授は突然フランス語やラテン語で喋り始めたりして(学生たちはああいう箇所を理解できているのか??)、私などは困惑するばかりになるのだけれど。
 直接関係ないのではあるが、かなり以前、慶應SFCがネット上に提供する濱田庸子教授の『パーソナリティ発達論』を自分として熱を入れて視聴していたことを思い出した。私が視聴していた頃はメールアドレス登録制だったと思うのだが、今は誰でもアクセスできるようになっているようだ。ただし、この当時のストリーミング動画の形式は古いリアルビデオなのでやや注意が必要。私は濱田教授の講義3期分を見通し、更にそれらをファイルとしてローカルに落としてDVD-Rに焼いてすらいる。あと、慶應SFCは、コンテンツ開放前提で特に自前のサーバに固執する理由がないなら、YouTubeに専用ページを買った方が安いしバックボーン的にも機能的にも充実すると思うのだが。

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 GW明けに採血される機会があったのだが、担当の年配看護婦が技術的にかなり下手で、その傷跡がまだ消えない。針を入れた時点で不必要に針脇に血が出ていたのだが、引き抜く際に近傍の皮膚を傷つけたため更に5cm近くも筋状に出血。一見して血まみれになった。

 保険証を忘れて受付で延々ごねている人足風の初老男性。「ルールは破るためにあるもんやろ」等々。

 なんだか早くも梅雨みたいな気候になってきた?

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