思いつくままのブログ記事

 やるせない感じでもやもや感(性的な意味ではない)がどうにもならないのだが、ブログに書いても仕方ない。
 のりこえねば。

 NPDによる他者性(他者が意思や感情を持って生きているという基本的認識)の喪失への理解が私には難しい。

 BPDとNPDはとても近い関係にあると言われる(どっちも自我脆弱性とかが類似的に絡んでいる)。境界例は、大昔は今のクラスタB全体を含むようなものであったらしく(あるいは既存のカテゴリから外れた人の集積場所)、私も当初日本語の本だけ読んでた頃はあんまり区別がついていなかった。NPDは共感性が異様にない。BPDは他者を振り回すがそこまでの冷酷さはない。振り幅が大きいだけで時には非常に共感的だったりするのだと思う(たぶん)。NPDの非共感性は表面的に取り繕われているが一貫している。彼らには悪意や罪責感がそれがあるべき状況下でなかったりする。
 NPDでそれとして無害なのは社会的に相当成功したNPDだけではないか?彼らの幻想と現実がある程度は合致した稀な状態だから(あとよっぽど孤立しているか?)。カーンバーグだかが、職業的人格としての政治家とNPDの類似性を書いていたような記憶がある。NPDを無害化するために全員そういうポジションにつけるわけにも行かない。周囲は大変だ。


 RSSへのアクセスが妙に増えている(サーバとして借りてるから分かる)。一日50件くらいある。夏ころは30件だった。更新頻度を上げたからか?

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 私はたぶん涙もろい方ではないと思うのだが、美輪明宏がNHKで「ヨイトマケの唄」を実演していて泣いてしまったことがある。いつかの紅白歌合戦より随分前。「ヨイトマケの唄」は、敗戦後にひとりの母親が土方に混じって苦労して働く姿と、その息子である自分が勉強しエンジニアにまで成長する物語を歌っている。
 私が泣いたのは、字面で読み取れる、通りいっぺんの哀歌に揺さぶられたからではなかった。そうではなく、当時すでに老人だった美輪明宏が、奇妙に顔の左半分だけ女性の化粧をしたまま、仁王立ちのようにして「ヨイトマケの唄」を歌い切ったからに他ならなかった。
 普通に考えて、ヤクザな道にも進まず立派なエンジニアになった男性が、化粧をしている必要はまったくないに違いない。美輪が同性愛者であるから個人的な趣味としてそれがなされたのだろうか、あるいは母親の面影を一人二役で演出したのだろうか。もしかするとそうだったかもしれないが、私には別のことが思い浮かばれた。
 私が異形の美輪の向こうに見たのは、主人公の男性が持ち越したどうにもならない未成熟性の兆候に他ならなかった。良い母親が、あるいは豊かな母性が、ひとりの少年をつつがなく平凡なる「男」に押し上げるものかもしれない。母親に正しく愛された少年は思春期の入り口でいびつにたじろがない...。
 重労働が母親を時間的に少年から奪うだけでない。痛苦はどうしたって母を自己愛的にするだろう。破綻の寸前でかろうじて踏みとどまっても、エゴイズムの連鎖が家族に忍び寄る。
 「ヨイトマケの唄」の美談の背後には、ある黒い影が差し込んでいる。そう気付いてふと舞台の中央を見直すと、顔の半分だけ女の化粧をしたままの美輪が、げんこつを腰に当て、まるで開き直るように胸を張ってそれを歌っていた。


 あまり言われないことだが、第二次世界大戦中と直後には大量の(今で言う)PTSDが発生したと思う。PTSDのみならず、強度のストレスが加わった家庭は何らかの機能不全を起こす。それらの機能不全は、諸家庭成員にメンタルの変調をもたらす確率を中長期的に高めただろう。

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 ネットの発達にともなって台頭してきた市民右翼(?)の一部が、京都市南区の勧進橋児童公園を50年にわたって不法使用していた朝鮮学校に対して異常なデモをし、京都地裁で敗訴するということがあった。

  私はいちおう京都市民なのだけれど、正直この事件まで勧進橋児童公園の存在自体知らなかった。南区は駅裏でそんなに行かないのである。この出来事を知って最初に思ったことは『そんなに長い間京都市行政はいったい何をしていたのか?』ということに他ならなかった。50年も違法状態をただ放置し続けた京都市行政こそが犯罪的だ。けれども、おそらく市の責任が問われることはないのだろう。

 他にも、慰安婦問題で出された「どうとでも取れる」文面の河野談話が今に禍根を残しているが、これも同様に、先送りやその場しのぎが問題を大きくした事例であるかもしれない。先送りが問題を大きくするということ自体は、多分だれでも分かる簡単なことだ。政治がその簡単なことを分かっていなかったとは安易に思えないが(韓国側の欺罔などなにか判断を歪める周辺事情があったことはあったのだろう)、少なくともプライオリティの比較衡量・差配において間違ったり、現に予想に反して問題が拡大している過程においてなお放置し続ける態度をとったりしたことが追い打ちをかけたかもしれない。

 日本の政治に非決定的な特質があるのだとすれば、それはどこから来たのだろう?ひとつには社会制度の根本である日本国憲法が、なかなか動かないということがあるもしれない。我が国は、両院2/3以上および国民投票での過半を必要とするような、容易に変更できない制度(硬性憲法と言うらしい)に従っている。憲法の高い硬度は当然に変化を嫌って、暴走を食い止める趣旨には効果的だが、改善を阻む壁としても効果的である。ただ、残念なことにと言うべきか、何度も憲法を修正しているアメリカ合衆国は、両院2/3でその後州議会で3/4を必要とするとされ、民主主義国家ではほとんど世界最硬度の改憲制度でありながら機能している。
 日本は戦後処理の過程で、アメリカ製憲法の維持について、なにか特殊な密約をさせられているのではないかと疑わなくもない。
 軽々に民族性を言う人もあるかもしれないが、例えば歴代の天下人(信長・秀吉・家康,etc)等が優柔不断だったとはとても思えない。敗戦後の落胆はたしかに国民的に尾を引く心的要素だったかも知れないが、もっと現実的な政治の異状が主たる要因だと思う。

 現行の日本国憲法が無効であると主張する人々がいる。京都から出ている参議院議員の西田昌司氏もそのようだが、敗戦憲法だからといって無効を唱えるのはみっともない。ここは日本の南北朝の収め方が良い手本になる。現憲法を有効としつつも、明治憲法の直接の世継ぎとして次の憲法を捉えれば良いのではないか。

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 11日にサーバの更新費を払ったのでまた1年このサーバを維持することになる。まぁ、事前に申し立てなければ自動更新なんだけれども。しかし、ネット環境が根本的に変わらない限り基本ずっとこのままで行くのかもしれないなぁ。

 IE11の互換表示設定でMT4(このブログのプラットフォーム)が復活の様相。ダッシュボードが問題なく動作するようになってる気がする。IE10の互換表示ではうまく行ってなかったはずだが。うれしい誤算かもしれない。

 昨今「意欲」について考えたりするが、よく分からない。なんとなく。


 コフートの「水平・垂直分割」理論には一定の説得力があるとは思うのだけど、やはりよく言われるように、コフートの患者たちは軽度の精神障害者に偏っている気がする。一部については、ほとんど精神障害者と呼ぶべきではないくらいかもしれない。
 しかしだからといって、コフートの著作が面白くないわけではまたないのだが...。
 「水平分割」は母親からの不健全な拒絶の痕跡を、また「垂直分割」は母親からの不健全な肯定の痕跡を示すが、コフートは、そのような悪性の「分割」を基本的に人間的成長や変容性内在化によって乗り越えられるものだと前提することで、彼の(仮説的)理論を構築している。母親からの蒼古的な拒絶を癒やして削がれていた野心を蘇生し(対水平分割)、母親からの過剰な容喙が遠ざけた理想化された父親イマーゴの獲得をやりなおすことで(対垂直分割)、長らく手前で堰き止められ涸れていた水力発電ダムに水を戻すように、本来の機能を回復させようというわけである。
 水平分割は、幼いころの欲求不満の累積みたいなものにより生じ、これは旧来のフロイト的「抑圧」とほとんど同じようなものだとしても、それ自体としてやすやすと克服できるケースばかりとも思われない。「抑圧」が、それとして多様性と重篤さの幅を持つものであることはいまさら述べるまでもないことだからだ。
 垂直分割は、幼いころの理想像として父親が機能しなかったため、母親が子にこうなって欲しいとあくまで自分勝手に願うイメージの押し付け(やおだて)に子がとらわれ、自分自身の人生のための現実的な着地点を見いだせずにいる状態だ。これもなんだか思春期辺りに「よくある話」かもしれない。母親にかぎらず親が子に過剰な期待や偏った目標を押し付け、思春期の子が迷惑がるのは、かなりよくある光景ではないだろうか。確かに大人になってからでも、反抗期をやり直すような感じで、自己に侵食している親の歪んだ意志を排出して自分の人生のための適正な目標を見つけられる場合はあるかもしれない。しかし、そんな人は元から重篤な損傷を負っていない気がする。
 親からの自己愛転移の犠牲になった個人が、分割を取り払う補助をする「共感者(≒治療者)」の現れ程度で回復できたとしたら、、それはむしろ彼の軽症を表すものかもしれない。またコフートの分割理論の、普遍性ではなく、凡庸さや表層性を示すものかもしれない。
 ただ、フォローするわけではないが、概念の簡略化に価値がないとは思わない。そういう意味で、社会性をもたらす父親、自己愛をもたらす母親、みたいなシンプルで大枠の捉え方は時に基本に立ち返る感じでそれとして悪くはない。あとコフートの患者はわりとお金持ちというか社会的には一定の成功を収めた人も少なくないらしいが(作家でサディストのM氏はコフートの治療を通してそれまで迷っていたライティングの学校を自ら設立することを決意したりする)、そのせいなのかどうか、コフートの態度は対人的にも理論的にも謙虚で偉ぶるところがない。「精神科医は患者に天啓を与える」などと高言していたラカンとはかなり対照的である。

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 ネット上でたまたま自閉症児の出現率とその父親の年齢の関係についてのある「コピペ」を見かけたのだが、内容に違和感があったので日本語版Wikipediaの自閉症のページを眺めていたら、案の定(と言うべきか?)、そのコピペと同じ内容の記述を見つけた。

Wikipedia>自閉症>原因
なお近年の米国の研究で、父親が中高年のときに授かった子供である場合に新生児が自閉症になりやすいという知見がある。同研究によると、父親が40歳以上の新生児は、自閉症や関連の症例が30歳未満の父親の場合の約6倍で、30 - 39歳の父親と比較すると1.5倍以上であったとされている。一方、母親については、年齢が高い場合でも多少の影響を及ぼす可能性は排除できないものの、子供の自閉症に与える有意な影響は認められなかった[7]
 で、英語版WikipediaのPaternal age effect(父親の年齢効果)というページにちょうどAutism spectrum disorder(自閉症)の項目があったので、比較してみようと読んでいるうちに、どんどんげんなりしてしまった。同項目には日本語のWikipediaに紹介されている上掲の2006年に発表されたReichenberg の調査(正確には、米国の研究というより、米国の研究者によるイスラエルでの調査であるようだ)を含めて、同様の調査が12件ならべて紹介されているのだが、ほかの調査で数字を示しているところは父が35歳・40歳以上の場合の自閉症発生率が、だいたい20代の1.2~1.4倍付近に収まっていたのである(最大は、父親が10歳年を取るごとに22%ずつ危険度が上昇、という表現を採ったカリフォルニアの調査であろうか)。いずれにせよ、日本語Wikipedia(およびコピペ)が採用していた6倍という数字とかなり開きがあるわけだが、Reichenbergの調査に対して母集団で2倍、自閉症児数で10倍の規模で行われたDurkinらによる2008年の調査では、40代以上の父親は25-29歳の父親に対して1.4倍の自閉症発生率でしかなかったと主張している(ちなみに35-39歳の母親の場合も1.3倍の危険度で似たようなものだが、夫が同年代以上である場合が多いとも思われる)。
 コピペのネタ元と思しきReichenbergの調査は母集団は十万人を超えるものの肝心の自閉症児が110名しか含まれておらず(それで出生時に父親が40代以上の自閉症児は14名)、サンプルが少ないと統計結果が不正確になりやすいのは言うまでもないわけで、このように一件だけ突出した「倍率」をたたき出している比較的小規模な調査のみを信頼するのはどうなのか。
 父親の加齢と自閉症児の発生に一定の相関があること自体はほぼ共通した認識であるようだが、そこまで激しいものではないことは、身辺等から予感する人も少なくないかもしれない。まあ、ここでこんなこと書いてもどこぞのコピペは拡散してゆくだけなのだろうな。

 大学時代に所属していたサークルの部長が当時『父親がすでに60歳を超えている』と言っていたのを思い出した。おそらく父が40代の子供だったのだろうが、彼自身やや個性的ではあった気もするが、少なくとも自閉症その他精神疾患のような感じはしなかった。
 検索している内に、山本五十六は父親が56歳の時の子で、俳優(?)の河相我聞は父親が70歳くらいの時の子であるらしいことを知った。

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 もとより、人は健常であってすら十全な現実検討能力を持ち得ない存在であるかもしれないが、メンタルに異状をきたした人などは、一時的な逸脱に加えて逸脱した後の補正能力の弱さも著しいなどとも言われる。ある意味で、現実検討能力の欠如のありかたのバラエティの上にさまざまな精神疾患(や個性)があるとも言えるのかもしれないが、やはりナルシシストの現実検討能力の毀損ぐあいというのは神秘的というか、なんとも言えない独特なものがある。
 ナルシシストがその情緒において語ることというのは、冷静な第三者が聞くと、たいていしょうもないか支離滅裂なものでしかない。彼らは、身体的・社会的な力関係や様々な原因から生ずる誤解により、盲目的に肯定してくれる他者(弱者)に依存して自己の誇大なファンタジーを保とうとするわけだが、私がかねてより不思議だと思うのは『なぜ彼らはそういう自ら設定している循環自体の虚構性に気付けないのか?』ということなのである。もし分かった上でだと言うなら、『なぜそのままに見え透いているはずのファンタジーに没入し続けられるのか?』ということなのである。何より、そういう制約的な状況に依存したり、人間関係等を囲い込んでいるのは彼ら自身なのである。
 確かに、ナルシシストは「自己」が肥大するにつれて自意識が薄らぎ、どうしても自己自身を客観的に見ることができなくなっていると説明できなくもないのかもしれないが、自分自身が特定の条件に依存しているという事実すら知覚できなくなっているほどではないはずだ。自ら種明かしを知りつつそのフィクションに耽溺し続ける光景は、やはり、そこそこ異様であり、安易な共感を許さない面がある。無理にたとえるなら、誇大感をくすぐる娯楽にどこまでも執着するような感じであるのだろうか?いや、しかし...、もっと根底からの虚実混同とそれによる快感が彼らのファンタジーを持続させる防御壁になっているような気がするのだ。そこがよく分からない。
 ナルシシストはいつまでも目覚めない。その点において、彼らの現実検討能力が恒常的にうまく機能していない可能性が低くないと思われるわけだが、一般論として以上に、興味深いところだ...。

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 CGIサイトのアクセスはGW後半にはかなり落ち着いて現在はほぼ普段水準に戻ってしまった。アクセスがこのまま累進的に増加して大変なことになるのではないかという期待or不安は、いずれも水泡に...。サーバ側の細かい仕様を再確認してみたが、知らずに、国内では転送量制限に関してもっとも余裕のあるサーバのひとつを選んでいたようだ。目安となる上限値を超えてもすぐに追徴金が発生するとかでもなく、単に「503エラー」が表示されてアクセスが制限されることになるだけみたいだ。おそらくはその時点でサーバ会社側から何らかの連絡が来るのかもしれない。しかし、上限値は現在の最大値のおおよそ100倍だったのである。ここのサーバ、意外と強かった...。

CIMG1331.jpg GWは晴れ続きで外にいることが多かったが、体調的に絶好調ではなかったので、バランスをとりながらという感じだった。写真は雙ヶ岡頂から見た仁和寺(世界遺産)。雙ヶ岡には古墳時代の玄室があるみたいだったが、実際の場所はよく分からなかった。このあと下りて仁和寺に向かった。

 人間という生き物の不可知性に対してより謙虚になろうと昨今思っているのだが、自分なりに間違った方向ではないと感じている。しょせん真実など分かりはしない。だから、その上で「私的真実」みたいなものをたいせつにしてみたい。事実の超越性にのみとらわれると、打ちひしがれるというか、身動きが取れなくなってしまうので、行動や思考を未来へ投げかけるためにも、自分なりの「とっかかり」みたいなものが必要である。それを私的真実と名づけてみる。

 そういえば、世界中の精神科医が使っている手引書の新バージョンであるDSM-5が近日出版される。朝日新聞によるとアスペルガー症候群の定義が変更されたらしいが、独立した項目にするかどうかで長々議論のあった「自己敗北性人格障害」の扱いなどどうなったのだろう。もはやその芽は完全消滅ということなのだろうか。

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 自己愛というものはたぶん誰にでもあるものなので、おどろおどろしく「自己愛性人格障害」などと呼んでも、彼らが(やや?)極端なだけで誰でもどこかは似ているというところがあると思われる。なんというか『病者から学ぶ』論に反対する人もいるとは思うが、私はそうは思わない。病者と健常者の境界域は入り組んだグラデーションのようなものであってそんなに截然としたものではないと思う。彼らのように激しい偏りが恒常化していないとしても、何らかのストレスの重なりなどによって、一時的にであれ、似たような状態に陥ることが普通の人でもあるかもしれない。そういうときに彼らから派生する知恵に助けられることはないことではないだろう。
 実はという程でもないが、現在信頼されているひとつのサイコパスの診断基準は、自己愛性人格障害のそれと重複した箇所を持つ内容になっている。ロバート・ヘアという人の作ったサイコパスの診断基準なのだが、因子群の1から3まである内で、1の中のいくつかは自己愛性人格障害(および演技性人格障害)とほぼ共通のものだとされていると思う。
 また、境界性人格障害に関しても、カーンバーグ系の解釈によれば自己愛性人格障害は境界性人格障害と同根とされるべきものだし、コフート的には(和田秀樹の説明によればだが)自己愛性人格障害の極端化したほとんど精神病に近いものをボーダーラインと呼ぶとされているようだ。
 冒頭に述べたように自己愛は基本的に誰にでもあるものなので、メンタルになんらかの変調をきたした人物の自己愛になんからの異変があるとしても特に不思議はないといえるかもしれないが、関係の深い群として人格障害のクラスタBのどれかを書物で横断的によく見かける気はする。
 いずれにせよ、自己愛というものがある普遍性を持つキー概念であることは論を俟たない。未だなんだかよく分からない複雑怪奇なものでもあるが。

 分からないといえば、先日、子供の部活かなんかの指導者の過度に威圧的な態度について電話で誰かに相談してる知らない中年女性が隣にいて、私はたまたま彼女のちょうど真正面に座っていたのだが、彼女がしゃべるうちにだんだん自らの怒りで興奮してきていて「もう時間だから」とあえて途中で電話を切って立ち去ろうとしたとき、私と眼が合ってしまってなぜかその瞬間に「きっ」と睨まれてしまった。慣性あるいは勢いというべきものか、部活の指導者に向けられるべき敵意が転移のような形で私に向けられたのか、それとも実際に私の態度が何か気に食わなかったのか...。
 おそらくそのはっきりした答えを知ることは永遠にないのだろう。

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CIMG1249.jpg このところ夕食後に必ずバナナ(トリプトファン+ビタミンB6+マグネシウム→セロトニン→メラトニン)を摂るようにしているのだが、格段に深く眠れるようになり、ほとんど新生感。たったこんなことでという感じだが、しかし、ということは、これまでかなり浅い睡眠だったことの証左...。
 指先に出ていた肌荒れ含め、また長引いていた風邪含め、ようやく完全復調という感じ。

 最近『エレンの歌3番』をよく流しているのだけど(本来賛美歌ではなく、劣勢の戦士を鼓舞する不穏なる戦いの歌であるようだけれども、やはりどこか母胎回帰的な...)、YOUTUBEにあげられてるソース不明のバージョンがいいのでそちらばかり聴いている。YOUTUBEは出来れば動画広告をやめてほしいが、考えてみればむしろこれまでどうやって収益を上げていたのか不思議な気もする。というか大本のGoogle自体の収益モデルがよく分からない。クロールデータの供与と広告による収益が主らしいが、なんだか釈然としない。

 先掲のコフートのKindle書籍に作家でサディストの自己愛パーソナリティーの症例が出てくる。作家氏は、特にそれを望まぬ妻にSM行為を強要するかなりの人なのだが、彼の持つ過剰な自己顕示欲に対するコフートの解釈にややはっとさせられた。つまり、幼少期における母なるものとの不調和あるいはその共感的反応の欠乏が、のちの「もっと自分を見て!」という恒常的欲求(不満)につながっているというのだ。作家氏のケースでは、幼時怪我をした自分の血液が兄弟の衣服に付着して、母が自分ではなく兄弟のほうのみを病院に連れて行ったエピソードが紹介されている(後刻なんとか気付いてもらえたようだが)。怪我の程度は書かれていないが、基調としての母親の無関心・愛情の偏在がこれ以外の情報によっても補強されうるものだったと考えられるようだ。
 母に顧みられないことの欲求不満が、のちの病的な自己顕示欲に「必ず」つながるとは言えないのではないかという疑問は、誰でも思いつくかもしれないが、そこの微妙で重要な分かれ目についても、コフートはヒントを出している。つまり、母親の無関心が未だ完全に絶望的なものとはなっていないという要件である。彼女が十分で健全な反応を示す希望がちらつくエサのように少しは残っているということである。「『もっと見て』もらえれば母からまともな反応が返ってくるかもしれない」という希望が完全には失われていない、ある意味で生殺しのような中途半端な状態のまま人格に定着してしまった成り立ちを、仮説的解釈としてコフートは示していることになる。
 たぶんこれは、先月紹介したGlen O. Gabbardのサブカテゴリのどちらにも帰属しないか、折衷的なケースに当たるようなものかもしれないが、これはこれで典型としてのリアリティーを持っていると言わざるを得ないと思った。

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 自己評価や自尊感情の高すぎる人も、本来ありのままの自分を再発見・再評価すべきなのだが、自己愛性人格などはベトナム戦争に行っても最もストレス耐性が強い群だったりするほどなので(マリー・イルゴイエンヌからの孫引き)、周りに迷惑をかけることは頻繁でも、生命力が強くネガティヴな心的状況になりにくいとされると思う。ただ本人として悩む場合はそれなりにあるらしい。
 彼らは、自分が思うとてもすばらしい自分を世間が認めないので、多かれ少なかれ肯定されることを過剰に希求するのであり、メランコリー親和型のパーソナリティーのようなごく低位からなされる存在の肯定の希求などとはまったく別の性質を持っている。
 ただ、自己愛性人格も一筋縄ではなく、ふたつのサブカテゴリに分ける考え方がある。ひとつは無自覚型であり、これはほとんど非現実的に誉めそやされて育ってしまったように見える場合で、無意識的な自己陶酔をしている。ふたつめは過剰警戒型で、そうは現実から褒めてもらえなかったので逃避的に自らを称揚する習慣を身に付けてしまった場合であって、やや奥まった意識的な自己陶酔と言っていいかもしれない。ただ、これらは自己愛性人格内のふたつの極として理念的に捉えたほうがいいような気がする。完全なる無自覚型はもはや人格障害の域を超えてると思われる??

Glen O. Gabbardによる自己愛性人格障害のサブタイプ※1
無自覚型 過剰警戒型
他人のリアクションを気にしない 他人のリアクションを非常に気にする
傲慢で攻撃的 内気で恥ずかしがり屋、あるいは控えめ
自己陶酔 自分よりも他人に注意が向いている
注目の的になりたい 注目の的になることを避けたい
送り手ではあるが受け手ではない 見解や批判の証言として他人に注意深く耳を傾ける
他人によって傷つけたれたという感覚が見かけ上鈍い たやすく傷つき、羞恥や屈辱を感じやすい

 いずれにせよ、自己に対する評価が偏っているので、何か普通でない方法で現実との折り合いを付けなければならないわけだが、中には、自分が思う自分として世間に評価されるために非常に真面目にがんばる人もあるらしく、ただただ傲慢でいやな人ばかりというわけでもないようだ。とは言え、追い求めているものは究極には全能感に近いものなので、仮にそれなりに社会的に成功できたとしても、根本に空虚を抱えたままであるとされるようだ。

※1 Glen O. Gabbard 『Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice Fourth Edition』2005 p487
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