思いつくままのブログ記事

 私が今まで読んだ早期の育児法でもっとも強い印象(悪い意味で)が残っているのは、「死の腕」という書籍に書かれてあったきわめて単純かつ悪魔的なやりかただ。どちらかというと神経の細い私が、なんであんなおどろおどろしい伝記を買ったのかよくわからないけれど、そういう自分自身に嫌気がさすような感じで迷ったあと無理をして選んだように記憶している。
 ヘンリー・リー・ルーカスの母親はヘンリーへの授乳のたびに必ず彼をつねったという。
 一瞬意味が分からなかったかもしれないが、これは書き間違いではない。この世の中苦痛を伴わない喜びなどないと彼女が言いたかったかどうかは分からない。無償の愛、無条件の愛が不在であることの宣告?ヘンリーの母親は今で言うSM嬢のような人だったらしい。あるいは"No pain no gain."はSMにおける鉄則だろうか。いずれにせよ彼女はそれを乳児に適用したのだ。
 もしメラニー・クラインが生きてこれを聞いたらどのように反応しただろう。卒倒しただろうか、いや、クラインはそんな弱い人ではないか。
 母親を含めたおびただしい殺戮のあと逮捕され収監されたヘンリーは、さまざまなエキスパートが入れ替わり立ち替わりカウンセリングしようとしたにもかかわらず、それら誰にも心を開かなかった。学術的な精神分析記録などは、だからまったく残っていないはずだと思う。
 彼はひとりの凡庸なキリスト教修道女にだけわずかに心を開いた。

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 雨中選挙カー(維新)に出くわして、ひとりだけ窓を開けて手を振ってくる女の子がいたのだが、あるいは立候補者の親族か何かだったのかもしれない。しかし、関西で巻き起こったとされる維新ブームはもうほとんど終わりである。大阪と京都ではもともと温度差がある。なかなか難しいかもしれない。

 チャンネル桜の外交討論をたれ流していたのだが、つまんないなあと聞き流していたら、パート3の中盤に入る辺りから急に美根慶樹(元駐ユーゴ大使)のスイッチが入って面白くなった。外務省のいわゆる「弱腰外交」と呼ばれるものの現場でのリアリティが垣間見れそうな感じになったのだが、いきり立った司会者などが日本側の立場をくどくど繰り返し始め、せっかくの議論の糸口がかき消されてしまった。つまり、美根氏はそんなこと主張したって無駄だと言いたげだったのであり、司会者等はなぜ彼がそういう認識に至ったのかの理由を掘り下げて訊くべきだった。美根氏は「アメリカは百も承知」と強調した。そらそうなんだろうなぁ。

 ネットに出回っていたペヤングの昆虫混入写真を見てしまって以来即席麺的なものをまったく食べていない。立ち直りにはおそらくまだしばらくかかる。

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 因果関係ってものは難しい。今の人間に把握できる直接的な因果から外れれば無意味・無関係と言えるわけではないかもしれない。
 「前後即因果の誤謬」というのがあるんだけど、こういうのは既知の因果関係から外れるものを全て排除するような傾向があると思う(そうなりがちだと思う)。
 何を因果とするかは簡単な事じゃない。

 他人にアドバイスするって(改めて思うのだが)多少なりともこわいことだ。アドバイスする側はある意味全存在が試されている、かも。
 俎上にのぼっている物事に関する知識は当然のことだけど、教える相手の人物把握もなければならないし、ひいては自分がどういう人物であるのかも試される。間接的な条件や周辺状況ももちろん。それら様々なことが本質において整合しなければ現実的かつ積極的な効果をもたらさない。二十歳を超えたようないい大人が軽率にドグマを他人に押し付けている光景は相当間抜けかもしれない。いや、単に間抜けだけでは済まない、暴力の根源となっているような局面も往々にしてあるかも。

 最近『カラマーゾフの兄弟』の私生児スメルジャコフのイメージが何故か脳裏を横切る。特に「ぼくのお金...」とスメルジャコフが縋るようなシーン。あれは作中どこのシーンだったのだろう。スメルジャコフは、兄弟たちの父親が街で有名な白痴の女性を酔っ払って強姦して生まれてしまった腹違いの子。
 読み返したい気持ちがふつふつ湧いているが、今は無理かなぁ。

 ちょっと風邪引いていたが、鼻風邪みたいだった。

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 真実が顕現したと思う自分の反応がものごとの真実性を保証するわけではないことは言うまでもないわけだが、曖昧な記憶や観念に思いがけず具体的な形が与えられたような瞬間などは気をつけねばならない。私も最近経験して反省しているのだが、「これだ」と思ったら一呼吸置くのがいいであろう(と、平静な時は思うものである)。

 英語の幼児語で'No.1'はおしっこで、'No.2'はうんちのことらしい。そういうTシャツを着ているアメリカ人はよくいる。

 英語の幼児語のうんちといえばpoohがあるみたいだが、私のいつものマグカップには"We will build an Eeyore House with sticks at Pooh Corner."と記されている。この場合のPoohは熊のプーさんのことなのだろうけど、"pooh corner"ならうんちコーナーともとれる。目につくたびなんかやだなあと思いながらもずっと使い続けている。何度も派手に落としているのにまったく割れない。

 このところ眠れないから体調悪いのか、唇切れまくりである。

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 眠れないのでなんかたらたら書く。

 また自作CGIサイトで悩んでいて、やめてしまいたい気持ちとせめぎ合っている。
 新サーバのお試し期間は23日まで。
 突き抜けようにもプログラミングの世界は奥が深すぎてすこぶる危険。

 今近くを救急車が通っているが、深夜の誰もいない道でサイレンを鳴らし続ける意義についてかねてより疑問だ。

 私は鬱病になったことはないと思うのだが、強めの抑鬱的なストレスに曝された時に、鬱病関連の読書体験が役に立っているような気がする時がある。現実は結局受け留めるしか無いのだ。

 しかし我ながら元気にはなってきたなぁ...。

 遠藤周作のエッセイで井の中の蛙のその後というのがあって、外に出てきてその広さにびっくりして死んでしまうということになっていた。
 そういえばマーティン・スコセッシは「沈黙」を撮り終えたのだろうか?

 比喩を許さない人というのは時々いる。無論事務的な会話だけで許さないのであればある程度理解できなくもないわけだが、比喩や喩え話を普遍的に嫌うような人はある種の疑いを持たれてもしかたがないかもしれない。どういう疑いなのかは書かないが。
 ノーベル賞の中村氏は喩え話を許すだろうか。
 しかし、イエスは喩え話が好きすぎる。

 人間欲をかくということはあるけれど、なにかの稀な幸運に浴した者がさらに稀なる幸運を求めるというのはなんだろう?ナルシシズム(→自己特別視)と関係がありそう、というか人の蒼古的な全能感が今に妨げなく支配力を行使するみたいなことかもしれない。ある種の気のゆるみというか。

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 案の定あんまり体調よくなかったがどうやら復調。
 当分飲酒はしない。

 グノーシス主義はかなり現実逃避的な考えで、ああいうのはたぶん相当に過酷な状況が背後にあったからこそ生まれたものに違いない。戦争・疫病・飢饉など生半可じゃない極端で悲惨な事態の継続が、この種の激しい厭世感情を生み出すものだと思う。正統のキリスト教会がグノーシス派を「異端」とするのは区分けとして仕方がないしある意味では当たり前の判断かもしれないが、チェスタートンのような比較的恵まれた生涯を送った一般人がグノーシス派を批判するのは、どこか違うような気がする。思想の背後にあるかもしれない極限的な苦悩に値段をつける資格が彼にあるような気がしない。
 弱いものいじめするなってわけじゃないが、なにか私のセンサーに触れるものがないではない。
 確かに、目の前のワインとキリストの血との区別が付くほどには、現実検討能力が適正に保たれているに越したことはないのは普通その通りであろうが、たとえば中世欧州にはそう思い込みたくなるほど激しい苦痛に満ちた大状況があったのではないか。あるいは、虚を実と思い込むことでどうにか現世を受容する気力を得た人々の着想なのだとしたら、「それとして」許されるべき思想ではないかと思うわけなのである。

 別ドメインに新リロードシステム入れたがうまく動いていると思う。ただし400PV/日弱くらいのページにのみ入れた。負荷を考慮して全体には入れないであろう。
 しかしなにやってんだろうなぁ、我ながら...。

 二条城は秋のライトアップ期間中みたいだったが、何かイベントをやっているのか夕方相当人が並んで、「ここが最後尾です」的な看板を持った整理の人まで出ていた。
・水槽と光と映像、金魚たちの新たなアート世界遺産でアートアクアリウムが開催!
http://kansai.pia.co.jp/news/art/2014-10/post-127.html
 これだったのかな??

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 チェスタートンが、パンやワインをキリストの現実の肉体や血として扱うグノーシス派を非難していたけど、別にいいじゃないかと思った。

 イエスが単に統合失調症者だったのではないかという仮説を紹介していたのがチェスタートンだったかどうか、忘れた。とにかくなんかで読んだけど、いずれにせよ微妙なとこだ。少なくとも近代的な概念としての統合失調症の歴史はわりと浅い。だからイエスの時代に統合失調症が無かったと主張することもできるかもしれないが、それに相当するものもなかったかどうか。

 やばいなあ。あんまお酒強くないのに、今日だけで赤ワインひと瓶飲んでしまうかも。さっきまで酔っ払いながらjavascriptのコード書いてた。酔わないとやってられない的なところもあるのだが。
 うーん、あの自作CGIサイト、いったいどうしたらいいんだろう。

 新しいガステーブルわりといい。グリルでピザ焼いてるが、見てないと焦げる。

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 マタイ5-46。

 私たちすべて分かり合えました的な歌詞の名も知らぬポップソング(「さくらさくら」リフレインしてた)が流れていて、どういうわけか耳障りだった。帰ってググってみたが、なんかうろおぼえでよく分からない。
 しかし、ああいうもんなのかもしれない。どうにもならない。

 芸能に興味ない私だが、加護亜依夫婦が共依存なのかどうかが気にかかる。

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 コフートは、変容性内在化は作家でサディストのM氏の症例においてうまくいかない旨のことを確かにかなりはっきり言っているのだが、一般論として否定まではしていないと思う。少なくとも治療過程における「変容」までは成功して患者を安定的にし得ているようで、問題は、治療を終了しても変容の効果が持続する「内在化」の部分でうまくいかないということのようだ。
 一時的にうまくいっているように見えても、治療関係を終え離れると基本的な部分においてほとんど元に戻ってしまう。
 これは共依存の問題と地続きのような感じがする。また別に、「フロイトが実は一人も治せなかった」説が思い出される。


 日本の教育改革はうまく行きそうな気がしない。中国やインドの文明を受容したあと欧米に乗り換えて図に当たっただけで、結局日本人は建国以来みずから基幹技術を編み出し文明を築きえたことなどない。2千年くらいずーっと「先進国」の二番煎じ(三番煎じ...)でなんとかやってきただけの歴史なのだ。それなのにいまさら、事象に直接立ち向かえとか世界視点での主体性を持てとかいっても無理な話かもしれない。
  「開明的な教師」によって近代的な個人を演じさせられる『山びこ学校』の生徒たちの集団催眠のような異様さが頭をよぎる。「個人」を、教えられたとおりまったく没個人的に演ずる子供たち。ほとんどあれと同様に、近代を日本人はずっと演じ続けてきただけかもしれない。
 先進国に肉薄してうまくやる日本得意の位置取りは今やたいした役得を生み出さない。さりとて、新しく飛び移る足場はなかなか見出せない。このままずるずる発展途上国に戻りたくないなら、演技ではない本物の先進国になって先進国なりのリスクを負って行くしかない。でもどうやって?

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 物事が思い通りにうまく行くと、幼児的な全能感への退行が起こる場合があるかもしれない。しかし現実には誰も全能者ではないので、過剰な歓喜の後にはある種の「軟着陸」が要請されることになる。しかし、この軟着陸がうまくできず、現実を否認したり現実の受容をできるだけ先に繰り延べようとする人もいるかもしれない。

 決定論(仏教など)では物事が誰かの思い通りに行くのではなくて、何か自律的に思った気になっている人そのものが大きな現象の中の要素に過ぎないみたいな捉え方かもしれない。キリスト教も決定論的な風合いがあるが、比較的人の自由意志を認めてる感じがあるかもしれない。神道は「そんなこと知ったことじゃありません」みたいな感じであろうか?

 『人に自由意志があるかどうか』という問題は厳密には誰にも答えられない。吉本隆明さんというポエム好きの人がいたが、ミシェル・フーコーが来日したときに対談して(通訳はのちの東大総長の蓮實重彦(奥さんフランス人))、そのことをやや強調的に訊いていた。誰も答えられっこない意地悪な質問なのだが、さすがフーコーは賢くてのらりくらりと躱して軽率に言質を取られないようにしていた。吉本自身は意志について『偶然の重なりが必然に転化する』などと、妥当感覚あるいは歴史感情みたいな(あるいは知の無根拠性みたいな?)ナイーヴな感じのことを、相手に尋ねる際に述べている。この対談は本になっている。

 人に自由意志がないという証明があるわけではもちろんない。むしろ、実社会は各個人に自由意志の余地が大幅に存していると前提して成り立っているもののような気がする。自由な心がけのありかた次第で誰もが他の誰かのようになれる、という感じの、まるで巨大なカルト(?)のような一面がなくはない。労働(者)は資本の前に互換でなければならないから、そこから醸成された後付のポリシーであるかもしれないが。

 誰かの業績が、単なる偶然でなく、その人の自由意志としての固有で主体的な判断があってはじめて発生しえたのだという、反決定論的主張はよくあるし、通俗的なレベルでそれを批判しようとは別段思わない。しかしそこには本当は、ある過剰な権利主張が含みこまれている。幸運に乗じて自分を大きく見せようと「主体」を騙る横着者は少なくないかもしれない。

 ある意思決定が本質において主体的なものであったかどうかは、実は本人を含め誰にも分からない。何かの発明のように、たとえ人類にとってまったく新しい意思決定であったとしても、である。

 赤ん坊はまだ自他が不分明な存在者で、健全な発達に伴ってしだいに「分別」を獲得していくかもしれない。「実社会のカルト」は、おそらくは、この一般に認識される発達段階から導かれた素朴な誤解により成り立っている面もあると思われる。(幼稚な?)日本社会は比較的その誤解の度合いが強いのかもしれない。自分の意識に差異が浮かび上がってくる以前の世界はすべて同質で一体だと無意識的に思いこむところにつまずきの石がある。しかしたぶん現実はいつでも差異に満ちていたし今も満ちている。

 自由意志とは、意志そのものの未知性から導かれた素朴で手前勝手な空想であるかもしれないけれど、それに対する肯定否定どちらの証拠があるわけでもないので、自由意志があるのかないのか問われてよせばいいのに挙証責任を負った方が議論に負ける仕組みである。

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