思いつくままのブログ記事

 マタイ5-46。

 私たちすべて分かり合えました的な歌詞の名も知らぬポップソング(「さくらさくら」リフレインしてた)が流れていて、どういうわけか耳障りだった。帰ってググってみたが、なんかうろおぼえでよく分からない。
 しかし、ああいうもんなのかもしれない。どうにもならない。

 芸能に興味ない私だが、加護亜依夫婦が共依存なのかどうかが気にかかる。

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 コフートは、変容性内在化は作家でサディストのM氏の症例においてうまくいかない旨のことを確かにかなりはっきり言っているのだが、一般論として否定まではしていないと思う。少なくとも治療過程における「変容」までは成功して患者を安定的にし得ているようで、問題は、治療を終了しても変容の効果が持続する「内在化」の部分でうまくいかないということのようだ。
 一時的にうまくいっているように見えても、治療関係を終え離れると基本的な部分においてほとんど元に戻ってしまう。
 これは共依存の問題と地続きのような感じがする。また別に、「フロイトが実は一人も治せなかった」説が思い出される。


 日本の教育改革はうまく行きそうな気がしない。中国やインドの文明を受容したあと欧米に乗り換えて図に当たっただけで、結局日本人は建国以来みずから基幹技術を編み出し文明を築きえたことなどない。2千年くらいずーっと「先進国」の二番煎じ(三番煎じ...)でなんとかやってきただけの歴史なのだ。それなのにいまさら、事象に直接立ち向かえとか世界視点での主体性を持てとかいっても無理な話かもしれない。
  「開明的な教師」によって近代的な個人を演じさせられる『山びこ学校』の生徒たちの集団催眠のような異様さが頭をよぎる。「個人」を、教えられたとおりまったく没個人的に演ずる子供たち。ほとんどあれと同様に、近代を日本人はずっと演じ続けてきただけかもしれない。
 先進国に肉薄してうまくやる日本得意の位置取りは今やたいした役得を生み出さない。さりとて、新しく飛び移る足場はなかなか見出せない。このままずるずる発展途上国に戻りたくないなら、演技ではない本物の先進国になって先進国なりのリスクを負って行くしかない。でもどうやって?

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 物事が思い通りにうまく行くと、幼児的な全能感への退行が起こる場合があるかもしれない。しかし現実には誰も全能者ではないので、過剰な歓喜の後にはある種の「軟着陸」が要請されることになる。しかし、この軟着陸がうまくできず、現実を否認したり現実の受容をできるだけ先に繰り延べようとする人もいるかもしれない。

 決定論(仏教など)では物事が誰かの思い通りに行くのではなくて、何か自律的に思った気になっている人そのものが大きな現象の中の要素に過ぎないみたいな捉え方かもしれない。キリスト教も決定論的な風合いがあるが、比較的人の自由意志を認めてる感じがあるかもしれない。神道は「そんなこと知ったことじゃありません」みたいな感じであろうか?

 『人に自由意志があるかどうか』という問題は厳密には誰にも答えられない。吉本隆明さんというポエム好きの人がいたが、ミシェル・フーコーが来日したときに対談して(通訳はのちの東大総長の蓮實重彦(奥さんフランス人))、そのことをやや強調的に訊いていた。誰も答えられっこない意地悪な質問なのだが、さすがフーコーは賢くてのらりくらりと躱して軽率に言質を取られないようにしていた。吉本自身は意志について『偶然の重なりが必然に転化する』などと、妥当感覚あるいは歴史感情みたいな(あるいは知の無根拠性みたいな?)ナイーヴな感じのことを、相手に尋ねる際に述べている。この対談は本になっている。

 人に自由意志がないという証明があるわけではもちろんない。むしろ、実社会は各個人に自由意志の余地が大幅に存していると前提して成り立っているもののような気がする。自由な心がけのありかた次第で誰もが他の誰かのようになれる、という感じの、まるで巨大なカルト(?)のような一面がなくはない。労働(者)は資本の前に互換でなければならないから、そこから醸成された後付のポリシーであるかもしれないが。

 誰かの業績が、単なる偶然でなく、その人の自由意志としての固有で主体的な判断があってはじめて発生しえたのだという、反決定論的主張はよくあるし、通俗的なレベルでそれを批判しようとは別段思わない。しかしそこには本当は、ある過剰な権利主張が含みこまれている。幸運に乗じて自分を大きく見せようと「主体」を騙る横着者は少なくないかもしれない。

 ある意思決定が本質において主体的なものであったかどうかは、実は本人を含め誰にも分からない。何かの発明のように、たとえ人類にとってまったく新しい意思決定であったとしても、である。

 赤ん坊はまだ自他が不分明な存在者で、健全な発達に伴ってしだいに「分別」を獲得していくかもしれない。「実社会のカルト」は、おそらくは、この一般に認識される発達段階から導かれた素朴な誤解により成り立っている面もあると思われる。(幼稚な?)日本社会は比較的その誤解の度合いが強いのかもしれない。自分の意識に差異が浮かび上がってくる以前の世界はすべて同質で一体だと無意識的に思いこむところにつまずきの石がある。しかしたぶん現実はいつでも差異に満ちていたし今も満ちている。

 自由意志とは、意志そのものの未知性から導かれた素朴で手前勝手な空想であるかもしれないけれど、それに対する肯定否定どちらの証拠があるわけでもないので、自由意志があるのかないのか問われてよせばいいのに挙証責任を負った方が議論に負ける仕組みである。

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 自己注釈的にすぎる文章って読みにくいわけだけど、ハインツ・コフートさん「The Restoration of the Self」の文章はかなり。いやぁ、パーレン、ダッシュ、カンマ、スラッシュ、コロンのオンパレードなのであります。私も多少なりとも自己注釈的な傾向があるような気がするわけだけど、しかし、この人ほどではないと思われる。
 なぜ文章が自己注釈的になってしまうのかについて考えないではないのだが、ひとつには考えながら書いているということがあると思う。事前に十分に考えてから小器用にまとめて書けと言われそうだが、事前に考えてその上さらに考えているのだと思いたい(!?)。もうひとつは、文章を簡潔に(!)しようとしているということがあると思う。まったく逆の結果になっているではないかと言われればそうなのだが、同時にそうでもないのである。もし噛み砕いて説明しだすと非常にくだくだしくなってしまう文章を自己注釈によって簡潔にしているということなのであって、要はこれでもまだましといいうことなのである(と思う)。
 釈然としないものが残ることは否定しないし、自己注釈的な文章が読みにくいことは依然そのとおりなのだが、ではどうするのがいいんだろうなぁ、しかし・・・。

 コフートはフェティシズムの原因を、幼時に母と祖母によって相当に過保護に育てられたUさんの症例をひいて、普通より過分に快を与えられたことそのものよりも非共感的にそうされたということのほうに問題の本質を見ながら説明している。つまり快も幼児の反応(や主体性)お構いなしに与えては倒錯を招くというコフートの見解である。
 確かにフェティシズムは無応答に与えられる快楽のようなものに違いなく、Uさんの育てられ方の偏りと型としてオーバーラップするような気はする。コフートもただUさんの事例のみに依拠して理論化してるわけではないとは思うわけだが、しかし読者としては一定の留保を必要とするところであるかもしれない。
 女性がペニスを持たないことが見ため的にあまりに恐怖なので身に着けているものとかをペニスの代替物とみなして愛着しようとする、というのが、フロイト的フェティシズムの説明だと思うが、コフートの説明と比較して格段に意味不明であることを確認したい(これではまるで女性にフェティシズムがない感じでもある)。 コフートがフロイトに反逆するのも無理はないのだが、さりとてコフート理論にハードな根拠があるわけではない。精神分析がどこまでも仮説の体系でしかないことは、それらしい説明に呑み込まれそうになったときに思い出すべき事実である。

 貨幣のフェティシズムにコフートの解釈をひきつけるとどうなるのだろう?ヒューマニティを捨象された記号への固着みたいなことなんだろうけど、確かに、無応答な快の提供者に貨幣は似ていなくもない。


追記(2014/06/21):
 「The Restoration of the Self」当該ページ画像あげてたんだけど、面倒なことになるのもいやなので削除した。文体が伝わらないと文脈上意味ないから引用の分量がやや多めになるのは合理的な理由があり仕方ないと思ったのだが、一般的な引用量と比較して、ちょっとやりすぎかもしれないとも思ったので自制することに。

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 私はネットのリストカット中継を二度だけ見てしまったことがある。前にも書いたが私はメンヘラの人の個人放送から意図して学ぼうとしていた時期があって、まぁそれならある意味もっと遭遇していてもおかしくないわけなのだが、私にはああいうのはとても苦痛でよく正視できないのである。それだけでうなされたり眠れなくなったりするとまでは行かないにしても、それに近いというか、少なくとも数日は気分が影響下にあることになるかもしれない。多少感じやすい傾向を自覚しているので、なんか対象者が荒れてそういう雰囲気になってくると私は早々に視聴をやめてしまう。しかしそれでも二回は見てしまったわけだが、今でも不快さでもてあますような記憶である。

 リストカットする人は自尊感情が低いとしばしば言われる。リストカットといえばBPD(!?)で、自尊感情が低いみたいな印象がなくはないが、むろん自尊感情の低さはまざまな起源と様態を持つものに違いない。
 BPDのような乳児期周辺をうまくクリアできなかったことが原因の一端だと思われているケース以外に、近親姦を含めるDVの被害者あるいはいじめを継続的に受けていたとか(トラウマ方面)、人生の選択に対する強い後悔を抱いてるとか(鬱方面)、自尊感情が低くなる様式はとても多様でそれがあるだけでこれだと言えることはまずないと思う。
 こういった人々でも、たとえば恋人などの理解者が現れて価値を肯定され自尊感情を(一時的に)持ち直すということは十分ありうることかもしれない。結婚とかしてその良好な依存関係がさらにずっと続くようならある意味問題が墓場まで持ち越されるような僥倖もありうるのかもしれないが(実際そんな平坦なわけないが)、仮に二人がいざわかれるとなった場合に、それまで普通の恋人関係にはない過剰な役割が担わされていた分、本来の状態が復元されるにあたって強い苦痛および不安が生じ、それにさらに破局自体がもたらす自己否定感情が追い打ちをかけるということになったりするのかもしれない。
 自尊感情の低い人が破局に際して激しい行動に出やすいのは上記のような依存の過剰部分が揺り戻しのように作用するからではないか。夢から覚めた落差が受忍限度を超えるのであろうか。

 自尊感情を高めるという場合に、成功体験を重ねよというアドバイスがよくあるが、これは多分BPDのように深いところに問題が根ざしているような人々にはあんまり効かないのかもしれない。また、実際「社会的」に成功体験を重ねられる人というのは特別な少数者でしかない。これはパンをケーキで代用するロジックに似ているし、それができたとして脆いバランスの上に成り立つ均衡でしかないだろう。
 自尊感情を他者との比較においてことさらに高めようとするのではなく(したければしてもいいいが)、何気ない普段の自分において或る静かな自尊感情を発見するような方向性のほうが有効なのではないかと思われる。「自分には価値がある」とむやみに念じ唱えるのではなく、普段のかなりリラックスした状態で「自分にはいつだってちょっとだけ価値がある」と思えるようになれば占めたものではないか?

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 タイトルは一見元も子もない感じだがあんがいそうでもないというか、「(無理に)分かり合おうとしない」というのが本質的に相当有効なやりかたではないかと思い始めている。ユルク・ヴィリィのナルシシストの分析を読み返していたのがきっかけなのだが、相手の偏りがどれだけ深刻かということは一応あるけれど(とても軽いなら話し合ったほうがいいかもしれない)、ある一定以上の深度の場合には、ほとんどコミュニケーションが不能な局面が多々あると思われる。あるいは彼らはコミュニケーションの積み重ねによって治ったりしないとも今更だが思われる。
 であるなら、無理することはないのだ。徒労のようなことはやめて、より全面的に「対処」に向かったほうがよっぽどまともだ。

※ナルシシスト(二次的自己愛障害)にありがちな反応経路
自他の区別の曖昧→他者愛の不在→欲望とエゴ(だけ)で統制される世界観→その世界観によった賞賛欲求→風変わりで的はずれないろんな出来事...

 ある程度通底する一次的自己愛障害の場合はまた現れ方がちょっと違うようだが、社会通念上言われるナルシシストはヴィリィによるところの二次的自己愛障害の方に近いだろうか。上の経路の一番最初の自他の区別の曖昧が重要で、ある意味希望のないところでもあるのだが、これはちょっとやそっとじゃ改善しない。人格の基礎部分のようなものであり、三つ子の魂百まで的に変わらないと思った方がいい。

 押してダメなら引いてみな、と言ったのが誰だか知らないが、なぜ今までこんなことに気づかなかったのかと思うほどだけど、実際に気づかなかったというよりその印象が大幅に更新されたとでもするのが本当かもしれないが。しかし私自身にもなにか一定のヴァルネラビリティがあったのかもしれない。諦めることによってある種の光が見えてきた感がなくはない。

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 こないだメンタルヘルスに興味をもったきっかけを少しだけ書いたが、私は内心において対象近親者をNPDだと断定してはいない。仮に実際本当にそうなのであったとしても、少なくともその傾向をある程度顕著に持っている人だという理解で十分なのであり、それ以上踏み越える必要は別にないと思っている。私に必要なのはどのように対応すれば現実的で良好な効果が現れるかであり、その効果が一般的な意味合いにおいて健全で正しいものであるようならそれでいいのである。
 ある程度偏りを納得しているとしても、それは人のタイプとしてであり、正式な意味での病名としてではないとも言えるかもしれない。
 たとえば、人は多様な理由で顕著に「話をコロコロ変え」るが、それが気分の揺れ動きやすさによるものなのか、生きる戦略としての日和見によるものなのか(大衆迎合的な政治家とか)、実際にコロコロ変えなければならないように現実が変化しているだけなのか(ほかにもたくさん)、などでそれぞれまったく意味内容が変わってくる。BPDを念頭に「気分」のスイングを中心に据えても、たとえばADHDのような人も気分がコロコロ変わるかもしれない。BPDの場合はスプリッティングや自己評価の低さや自我脆弱を基本に置く不安定さであり、ADHDはその種の脆さや傾向をあんまり持っていないかもしれない(し多動の傾向が顕著だろう)。そういう幾つもの差異を一定以上の時間と労力をもって地道に把握していく知識と態度がなければ、「断定」はまともな意味を持ち得ない。
 (厳しい意味での)判断がそう簡単な事じゃないと言いたくもあるのだが、たとえばひとつだけの人格障害を標的にする場合でもきわめて広範な知識が必要であり、ほとんど限りがないような面があるということなのである。DSMの診断基準を読んでも「類似の他の疾病ではない」みたいな意味合いのことがさらっと書いてあったりする。何気ない一行だとしてもこれはきわめて莫大な知識および労力を要する排他処理を意味している。医者は自分の職業的責任において診断書を出しているのだろうからそれはそれでいいのだが、彼らですら誤診(1,2)するのなら、素人としては拙速な断念をもつ必要は特にないように思うのだ。より良い方向に進んでいるかどうかを主に気にかけていればいい。

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BPDがパートナーを怒らせてしまう原因は、
1)言うこと(気分)がコロコロ変わる
2)構ってもらうために(常識ではありえないような)極端な行動に出る
3)口喧嘩で、普通は避けるようなことまで言ってしまう
4)相手を自分の駒のように捉えている時がある
5)何かすべきことがあるのにぐったりしている
6)その他
、みたいな感じであろうか??
 むろんこれらは、一時的には誰にでもあるようなことかもしれないが、傾向として普通より顕著かつ継続的だから相手が感情的になるのは言うまでもない。もちろんその上でBPDでも個人差があるだろう。
 こういう時、パートナーの側が、一瞬の感情を抑えて「保護者のような気持ち」になれるかどうかが勝負なのではないかと思う。対等の大人だと思うと腹も立つだろうし、それであんまりストレスが昂じると様々な意味で不測の事態ということにもなりかねない。
 以前も書いた気がするが、対等な個人の関係として「保護者役」をやり続けるのは矛盾であり、かなりの意志力を必要とすると思われる。はっきり言って健常ならまったく必要のない努力が多年にわたって要求され続けるのだから、最初はよくてもだんだんきつくなるのは目に見えている。
 パートナー側は怒りが昂じた時、近寄るのではなく、心理的にやや距離を取り、親のような気持ちになるべきだ。味気ないかもしれないが、それである程度「暴発」を避けられるかもしれない。通常の男女間ではそんなには必要のないはずのこの種の努力の見返りは、平穏の一時的回復以外特別なものはなく、やっているうちにBPDが上に列記した行動様式を意志によって改められるわけではない。と言うか、主観的にはもともとBPD側に悪気はない(たぶん)。
 賢いBPD同士のカップルとかなら、共通の次元で理解し合って「保護者役」を互いにやってあげる、いたわり合いのような関係もありうるのかもしれないが、しかし、それはそれで別の危険が台頭するような気はする。
 あと、怒りの(病的な)原因として、パートナー側が何らかの問題を抱えている場合も当然あるだろうけど、まぁ怒るってだけでは多様すぎて雲をつかむようなあれだ。

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 なんか近場の小規模店舗群の様子が思わしくない。
 今年に入って角地にあったドラッグストアの支店が潰れたのが皮切りだった気もするが、歯科医院が診察日を減らしたのはもうしばらく前か。
 小さい方のヘアサロンがこのところシャッターを閉めている。臨時休業の張り紙があるわけでもない。開店から二年くらい経っていると思う。めったにお客のいない飾り気のない店。
 しばらく行かなくなっていた100円ショップに菓子類購入のためにふたたび行くようになっているのだが、店主と言うかフランチャイズ契約者と思しき老人がレジをしていることが多くなった。京都は学生の街でもあるのでアルバイトの応募に困るとは考えにくい。フランチャイズ契約者自身がレジに立ち始めるというのはたぶんかなり状況がよくないのではないかと思う。


 奥さんが止めているだかで日本非公開の三島由紀夫の映画「Mishima」は、やや精神分析的なアウトラインを持っている。三島のごく幼少期に、彼の祖母が若い息子夫婦からその男児を取り上げて自分の部屋に囲い込み、時に母を恋慕して三島がむずかると「あそこが痛いここが痛い」と幼い憐憫を誘って気をくじくような演技を繰り返した。前半に一定の時間を割いてこういうシーンが比較的丁寧に描かれる。
 終生自然に笑うことができなかったと言われる三島由紀夫が、健康な母子関係がもたらすべき情緒的な発達の機会を上記のような特殊な環境下で逃してしまったと考えるのは、たぶんそれなりにオーソドックスな解釈かもしれないし、映画もそのようなことを言いたかった面があっただろう。
 三島の祖母の異常行動がなんだったのかというのはひとつのテーマだと思う。三島は彼女のどういう欲望の犠牲者だったのか?男児を去勢しようとする女性の残酷な欲望は、たとえば「男性」に対するある種の復讐心から来ているだろうか?仮にそのような復讐心が餌食となる弱者を探すものだとしても、なにか倫理的なハードルのようなものがあってしかるべきで、三島の祖母がそのハードルみたいなものをやすやすと乗り越え得たのはなぜなのか?

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 メンタルヘルス方面の書籍を読んでると時々「色盲のたとえ」が使われることがある。つまり、色盲者は交通信号を見るときに、色ではなくどの位置のランプが光っているかによって信号の意味を判断する。それでもいちおう事足りるという。そして、(軽度)自閉症やNPDやサイコパスといった共感性に障害のある人々は、社会や共同体に適応しようとするときに色盲者たちとどこか似たような内的操作をするようだ。
 つまり、彼ら非共感者たちは、一次的にはその場の雰囲気が読めなかったり標準的な情緒を催さなかったりするのだが、半拍くらいはずれるとしても、周囲の人々のかすかな反応等をいち早く理性によって捉えることで、集団に馴染むような二次反応を自らに作り出すらしい。詐欺師などで頭のいいサイコパスなどはそのある種の熟達者と言っていいのかもしれない。
 しかし今日夜道を歩いていてふと気付いたのだが、夜間には信号機のランプの位置がよく分からないのである。確かに昼間は左が進め(青)とか色が知覚できなくてもランプの並びで分かるだろうが、夜はどの位置のランプが光っているのかとてもわかりにくいか、ほとんどわからない。
 世の中弥縫策というのはあるべきものだが、それにまつわる限界は必ずあり、中長期的にどこかではカタストロフィーに遭遇するのかもしれない。日常においても別のストレスが生じているくらいはあらわかもしれない。

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