思いつくままのブログ記事

 最近、乳幼児から母親への投影ではなく、(母)親から乳幼児に対する投影のことを考えたりする。対象関係論でもやや手薄なところかもしれないが、もっと言えば病的な親からの乳幼児に対する投影と表現すべきかもしれない。病的な親は、未だ無垢な我が子に、自分の乳幼児だった頃の歪みを投影してしまうのではないかみたいな論点。

 演技性人格障害と呼ばれているものは、以前はヒステリー人格と呼ばれていたのだと思う。小さな子が思い通りにならない時に癇癪を起こしたり地団駄を踏んだりしたりすることがある。あるいは自分が家族の中で注目の的にならないことに強い不満を表明したりすることがある。また、まだ自己が固まらず、誰かを模倣したり自己陶酔的な演技をすることによって自分を(都合よく)表現しがちだったりもする。多少ネガティヴなことかもしれないが、こんなのは幼児期にだれでも経験するような反応に違いなく、親はたしなめたりなだめたりしながら現実を納得させていくものかもしれない。しかしこのような幼児性を大人になっても持続している人がいるとすると、本人あるいは周囲はそこそこ大変そうである。こういう幼児のわがままさやこらえ性のなさ、自己の曖昧さみたいなものが色濃く残った大人をヒステリー人格といい、比較的女性に特徴的であって、人格障害のカテゴライズの中では演技性人格障害と呼ばれているのだと思う。
 演技性人格障害は女、反社会性人格障害は男、でそれらは性別によるコインの裏表みたいな理解も俗にあるのかもしれないが、もしかするとそう簡単ではないかもしれない。それらは異性との組み合わせもありうるし、上に見たように演技性人格障害の本質はある種の幼児性の残存であり、反社会性人格障害の方は扁桃体など一定以上器質的な異常を起源とするみたいな説明を少なくとも私は信じている。したがって両者を単純に同じことの性別による裏表みたいな理解をすると間違うかもしれない。


 CGIサイトは100%自動にはできそうにないが、それなりに「ほったらかし」にはできそうである。幸い私的な技術的限界付近にあり、要はそれなりには頑張って作っていたのだが、これ以上の格段のバージョンアップはいずれにせよすぐには無理なので、まあ長めの様子見ということになるだろう。自動化で寝てても広告料が入ってくる(?)というわけだが、残念ながらとても少額である。

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 なんかChromeでMT4が使えるようになっている気がするので、特に申し述べることもないが書いている。バージョンが変わるとまた駄目になるかもしれないが。

 善悪の此岸。夢見がちなフリードリッヒ。
 統合は超越の側にあるのではなく、ただ私達の足元にあるのではないかと思うのである。

 他人が欲しがっているものが欲しくなるのは「人情」だけど、他者の欲望を介さないでは自分がなにを欲すべきかわからないようだと、どうなのか?

 クラインが『羨望と感謝』の中で羨望(嫉妬ではない)の原型を母親の乳房に対する羨望に見ているが、なんだかしっくりこないところだ。多分羨望が成立するほど自他の区別がまだはっきりしていないのではないかという疑念がはさまるからだと思う。

 エレンの歌3番は9割以上の確率で効くのだが(薬か)、先月初旬に抑鬱がどうのと書いていた時はあまり効かず、かなりあれだった。今は比較的ましなのであろうか。



Caccini - Ave Maria

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 一人の人物を他から切り取って解釈するのではなく、対人関係のダイナミズムによって理解できると様々なくもりも晴れてくることがあるのかもしれない。たぶん大なり小なり「すくみあい」のような面があって、それにからめとられながら生きている。そして表面的な「すくみあい」が病巣の核を隠匿していることがありうるかもしれない。

 自覚的にしろ無自覚的にしろ、夢見がちにすぎる人というのは危険人物なのだ。本来ならできるだけ近寄らない方がいいに違いない。

 「防衛(機制)のために他者を犠牲にすることを厭わない」というのが、対人関係における悲劇のある典型的な端緒なのかもしれない。むろん防衛(機制)の内容はいろいろだろうが、そこに悪意はなく、むしろ主観的な合理性すらある。自分が苦しめているのにもかかわらず、当人はそれを単に自然過程のように理解することになるが、むろん特に冷酷なわけではない。

 一般的なことが書かれてあるだけなのに、特に自分にだけ当てはまるものだと思い込むことを『バーナム効果』と言います。が、こういった行き過ぎた確信は他にも種類があるので本当にバーナム効果かどうか判断するのも、またたぶん難しい。


 今日CGIサイトの方にかなり恥ずかしいバグを発見で冷や汗。私の別ドメインのCGIサイトは微妙なアクセス数で、アフィリエイト等を本格的にやろうとするには少ないが、こぢんまりした個人サイトとしてはそこそこ人が来ている方かもしれない。メンテナンスやデバッグにあんまり労力を傾けるのもどうかという感じがあるが、それなりに人に使ってもらっているのである種の責任みたいなものが生ずるわけで、なんだか妙な気苦労みたいなものがある。しかし、根本的にしょうもないプログラミング能力しかないので、そっちの方を向上しないとなぁ...。 
 そういえば、サーバ側が翌日出してくるアクセス情報(このブログのもいっしょくた)を、より分けて解析するスクリプトを自分で組んだ。オンラインで動かしているCGI側のアクセス記録機能はできるだけ使いたくない。しかし、サーバ側が出してくるアクセス情報は前日以前は、容量を減らすためすべてZIP(gz)圧縮されていて、それをスクリプト内で解凍させるのに手こずった。他の人のサイトの情報をほとんどコピペで解決。なんでうまく行ってるのか、そうは分かっていない。あぁ...。 

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 日本のバレエ団がスヴェトラーナ・ザハロワをプリンシパルに呼んだなにかの舞台のDVDで、ザハロワ以外のバレリーナは全員日本人だったのだが、観るのが途中で辛くなったことがあった。彼らはほとんど別の生き物だった。ザハロワの周りで手脚の短い別の生き物が終始じたばたしているような感じだった。
 また、ザハロワの熱烈なファンなのか、観客のひとりの男性が、彼女が見せ場でポーズやターンを決めるたびに、異様な熱意をもってブラボーを叫ぶのもきつかった。単に彼の声量が突出していたというだけでなく、一貫して非常に個人的に興奮されていた。
 それ以外の観客はおとなしかったのだけれど、むしろほとんど緊張しているというか取って付けたような反応。
 それで「日本人にはバレエは合わない」などと誰だかに軽はずみに断言した記憶がある。やや言い過ぎだったと今では思うが(いちおう日本人でも国際的に活躍している人はいるようなので)、しかしある絶対的な限界を示している気がしたことは確かだった。

 今月1日に行われたローザンヌ国際バレエコンクールで日本の高校生が1位と2位を独占した直後なのにあれだが、ニュースを見て少し複雑な気持ちになったので。

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 BPD方面の掲示板を見ていて、書き込みが生々しく、反省というか自分の認識をやや改めていた。
 やはり弱者同士が深く支えあうというのは美しい光景のようでかなり危険だ。なまじっか相手の気持が分かってしまうから、共感できるという意味ではどうしても引き寄せられてしまうが、羅針盤のない船の平和のようなもので、あとから大変なことになる。
 親子なら共依存もある程度仕方ないで済む場合もあるだろう。あるいは「育て直し」が功を奏する可能性すらあるのかもしれない。しかし、カップルの場合は所詮他人なので、多少は相手の親役をやってあげることがあるにしても、状況が本質的に異なる。双方が病んでいて悪循環の「純度」が高まってしまうと(どちらも別れればいいはずなのに別れられない)、エスカレーションが相当なことになるようだ。
 病者側の未熟さをやすやすとカバーしてなお余りあるような、経済的にもメンタル的にも知的にも強い健康優良児みたいなのと付き合うなら、共依存状態を完全に避けられるのかもしれない。しかし普通ですら難しいのにそういう少数の強者がわざわざ病んだ者をまじめな交際相手に選ぶとは思えないし、あってももはや保護者みたいな状態であり、成熟を前提とする感情の部分で相当通じ合わないだろう。
 掲示板の書き込みでは、多くの人が互いに傷つきながら関係を保ったり断ったりしているようだった。

 「BPDは内省できない」みたいなパートナーの方の述懐があって印象に残った。BPDのすべてが内省が苦手かどうかは症状の軽重や個性の関係もあると思うので留保するとしても、傾向として、自我や自尊感情や現実検討能力が弱いと自分というものの輪郭がはっきりしなくなると思われ、内省しようにもできなくなるのではないかと思われる。これは逆に誇大感によって自己の輪郭がなくなるNPD(不健全なナルシシスト)もその傾向があるのではないかと思う。
 内省ができているうちは、仮に悩んでいるとしても、ある程度自他の区別が適正に保たれている兆候かもしれない。内省ができず、手っ取り早く合致する解答をどこかに探すように、自分について「他人の頭で考える」しかないようだと好ましくない状況かもしれない。いろんな知識や考えを仕入れることはもちろん大切だが、それだけで自分が解決されることはないのだから。
 私は、弱い自我を強くすべきみたいなことをこのブログで書くが、これはわがままになるみたいな意味ではない。自他の区別がありながらも共感性を失わず比較的安定した自我のことを強い自我として指している。いわゆる自我脆弱や自我拡散に陥らない強い自我のこと。関連書籍に出てくる内容を私なりに噛み砕いて書いてるつもりだが、やや誤解を生むかもしれないと気付いたので。しなやかで強い自我。

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 私の唯美主義の正体は結局は「人嫌い」なので、本当の唯美主義とは土台においてやや違うものかもしれない。真に美的なものが人の世にありえないために(!?)、はぐれた美意識が超越的になっているということなのであって、私に特に何か偏愛する美的世界があるというわけではないのだ。つまり現実から虚空に逃れようとする美意識の不定形のベクトルがあるだけなのだと思う。
 子供の頃の芸能人への低評価については、音楽教師の母がしばしば彼らをまるで害虫かなにかのように(ちょっと言い過ぎか)見なしていたということの影響もある気がする。ただ、そういう母への反発もないことはなかったのだが。
 自然の美しさというものもあるわけだが、それもどこか人を通して成立している感覚であるかもしれない。山や海が美しいと思うのは、どこか社会やそれを分かち合う他者を想定しているからありうるのではないだろうか?絶海の孤島に慣れたロビンソンクルーソーは、海をいちいち美しいとは思わなくなるのではないか。
 美がどこにもありえなければ美に飢えるので、唯美主義的にならざるを得ない。
 我ながら、なんだこれは。
 たとえば現実に絶望した革命家の脳裏には甘く美しいユートピアのイメージが刻まれているもののような気がするが...、私のはもっと不定形でむしろ反思想的だ。
 『人間は恋と革命のために生まれて来たのだ』太宰治
 この太宰の言う「恋」や「革命」の意味内容もたぶん空疎だ(ファンに怒られるかもしれないが)。

 中学生の時にクラスメイトのひとりが「アイドルになる」ために東京へ転校していったことがあった。彼女はクラス内でも真ん中くらいの容貌だったと思う。特に歌やダンスがうまいわけでもなかった。教師から彼女の転校を知らされたあと、驚いているはずのクラスメイトの誰もが奇妙に一切そのことに触れなかった。なんでこんなことを思い出したのか。彼女がアイドルになった形跡はない。
 別にアイドルになれなくても、人として幸福になっていればそれでいいわけだが。

 私は実は精神的なものの価値をそんなには高く捉えていない。すべてケミカルな反応だから精神など幻想なのだというのはヒッピー思想(ヒッピー文化には思想的バックボーンがあった。主に薬物使用による意識の変容を体験した人々が、昔ながらの精神と物質の対立において物質の側に素朴に勝利を与えた。村上龍もいちおうこの系譜だと思う。)だが、私は精神の本質が物質である(だろう)ことにヒッピーのようにはショックを受けないので、そんな程度で精神活動が無価値だと思ったりはしないが、『いくら話し合ったって無駄』という感じがどこかに強固にあることも確かなのだ。精神活動としてのコミュニケーションというものに対する信頼が普通よりやや低いかもしれない。やはり具体的に事態を動かせ(れ)ばそれなりにかなりのことが解決するものだと思う。
 では私は一体なににこだわっているというのだろう?

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 個人的にはめっきりネットの生放送を観なくなっているのだが、ネットのトラフィックを調査をしているsimilarweb.comのニコ生の統計を見ると、まったくの横ばいみたい。人が減ってる説は嘘かなぁ。

 フロイトは発達段階のモデルのなかでサディズムという語を大きく二回使っていると思う。ひとつは口唇期サディズムでもうひとつは肛門期サディズムだ。大人の性倒錯としての起源はどちらかと言うと肛門期サディズムにあるとされるかもしれない。口唇期サディズムの方は幼く反射的に過ぎて、支配―被支配の政治的側面がない。マゾヒズムはフロイト的には自己へ向かうサディズムとして捉えられ、大本でサディズムに統合される。
 私がフロイトの説明を信じているということでは必ずしもないが。

 私はどこか唯美主義的なところがあり、たぶんこれは色んな意味でよくない傾向だと自分で分かっているのだが、分かっていてもなおらない。芸能人の外見の美醜について点数をつけあうようなことを子供の頃だれでもするかもしれないが、私の与える数字だけがすべて異様に低くその場の雰囲気を壊したのを覚えている。

 焦っている人に「焦るな」とアドバイスするのはどの程度効果があることなのだろう。

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 ずいぶんまえ、斎藤学(精神科医)と大江健三郎が同席した何かのシンポジウムの中継で、共依存の超克について斎藤があれこれ述べたあとに、大江が「共依存でも別にいいじゃないですか」みたいなことを発言したのを覚えている。斎藤はそれで黙ってしまった。私は必ずしも大江が素晴らしい小説家だとは思っていないが、この発言には曖昧に賛同したい気もある。
 大江は治癒する見込みの無い障害を持つ息子の光さんのことを念頭に共依存を「肯定」したのかもしれないが、ある程度なら、誰にでも当てはまることのようにも思える。パーソナリティーの偏りを多少矯正することすら難しい現状で、人はおろせぬ重荷とともにどこか共依存(でなければ何らかの嗜癖)的な部分を引きずって生きていかざるをえないかもしれない。
 しかし、その上で私が留保したいと思ったのは、共依存でいいじゃないかと開き直ってしまう態度だった。治る見込みが無いから短絡的に共依存的帰結を肯定するのではなく、共依存を「乗り越えようとしていること」が重要だと思うのだ。結果的に乗り越えられなくったっていいけども、開き直ることによって捨て去るものがあるような気がする。大江は言及しなかっただけで必ずしもそれまで否定したわけではないかもしれないが。
 どこか不格好で日々葛藤に苛まれても、なんとかその関係の中で生きてゆくしかない面があるということはその通りだろうが、往々にしてより弱いものにしわ寄せが行くということは共依存の内部においても例外ではないと思う。妥協が必要だとしても、十全な状況だと過信すべきでもまたない。

 近親姦の被害にあった子は自己評価が低いと言われるが、昨日SM関係の個人ブログを見ていて、近親姦の告白(むろん作り話かもしれない)をしている自称マゾヒスト的な女性(twitterのフォロワーが1万人以上いてわりと有名みたいだ)がいて印象に残った。いくらか家庭の事情みたいなものを書いていて、より細かい生い立ちを訊いてみたい気もしたが、なんとなく空想が勝手に広がっていかないでもなかった。<基調として非共感的な父親。実母との死別(そう書いてあったわけではないが)のあとの父の若い後妻との再婚。>著しく低い自己評価と刹那主義の兆候がどこから来たのか、もし話がある程度本当なら、彼女は彼女なりの妥協点を見つけて生きているといえばそうのなかもしれない。しかしもうちょっとましな方法が決してないとは言えない...。

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 先日一部紹介した中野良平の論文「神経症的結婚」の元ネタの邦訳であるユルク・ヴィリィ「夫婦関係の精神分析」がアマゾンにあったのでさっき注文したのだけど、年内に届くのかな?「自己愛的共謀」は互いが独立した自我や尊厳を持つ個人であることに耐えられない親近集団が陥る倒錯世界だ。誰かあるいは一人を除く他の者が、自我を消さねば関係が安定しない。
 これはいわゆるSMの世界に似てもいるのかなと思い、「愛好者の方々」のそれっぽい(写真添付などがあってマニア作家さんの創作じゃない感じの)ブログを見たりしていたのだが、なかなか示唆に富むような気もした。「良好」な関係を維持するために、必要以上にパートナーと親しくなりたくない、と述懐するマゾヒストの女性の発言が印象に残った。あくまで恋人ではなくただ物として扱われたいのだそうだ...。
 SM系のファッションが全般に身体を過剰に物に近付けようと(フェティシズム)しているように見えるのも同様の理由からかもしれない。
 そこにはサディストやマゾヒストがいるのではなく、ただ未熟な自己愛をもてあます自我の弱い人々がいるだけ、ということになるかどうか分からない。いわゆるサドマゾ的な世界には本当のAlgolagnia(DNAエラー説があるようだ)のような人々はあんまりいないのではないかと前から思ったりしている。まあそう詳しくもないしよく分からないのだけれど。彼らの何割かは、実はただ「他者愛」に耐えられない人たちなのではないかと夢想したりしている。

 虐待でも差別でも何かの犯罪の被害者でも、あるいは事故に巻き込まれるなど何らかの不運をこうむった人もそうかもしれないが、不当な外的な力によって人生に負の影響を与えられた人々が被害者意識ゆえに自己愛をたくましくするという事があるように思う。実際にそれが誰もが同情する社会的にも許されないような災難であるとすると、自己愛の過剰分をもが黙認され当人を堕落させることにもなりかねない。
 そのような被害者たちの甘い陶酔を覚まさせるには?

 こないだ久しぶりに傘をなくした。しかしどこでなくしたかまったくわからない。こんなことは私としてはあんまりない。どうなってんだ?
 不全感甚だし。

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 美女がナルシシストであるとは限らないのは言うまでもないが、この種の区別がなかなかつきづらい人がいるかもしれないということにふと気付いた。自他の区別が弱いタイプと言い換えることができるかもしれないのだが、自分が羨望する他者は必ず自己に陶酔していると考えてしまう。なぜなら自分の判断基準に「普遍性」を認めてしまって、相手も自分と同じ価値観を有しているから得意満面に違いない、と頭から決めてかかってしまうのだ。むしろこのような人のほうがナルシシストであるおそれがあるかもしれないわけだが、ただ他にも色々可能性があるだろうからたぶんこれだけでは難しいが...。
 世間で日常的に使われるナルシシストという単語と、最近このブログでよく出しているナルシシストは微妙にニュアンスが違うかもしれない。私が問題にしているのはパーソナリティーとしてのナルシシストです。

 この冬初の風邪を(またしても)引いているが、昨夜タウリン3000㎎とかいうドリンクを飲んで寝たらほとんど咳が収まった。ビタミンCのやつもよかったのか。
 今はあたためたカモミールティーを飲んでいる。カモミールも風邪に効くらしい。

 ダブルバインドとかコケットリーみたいな矛盾した状況からの脱出法について考えたりするが、よく分からない。最初から「関わらない」ってことがいいのかもしれないが、現実にはそうも言ってられない場合も多いかもしれない。ではどうするのが正しい対処法なのか?それを乗り越えられるほど「強く」なれ?うーん、弱みというのは必ずどこかにはあるもので...。

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