思いつくままのブログ記事

 自己注釈的にすぎる文章って読みにくいわけだけど、ハインツ・コフートさん「The Restoration of the Self」の文章はかなり。いやぁ、パーレン、ダッシュ、カンマ、スラッシュ、コロンのオンパレードなのであります。私も多少なりとも自己注釈的な傾向があるような気がするわけだけど、しかし、この人ほどではないと思われる。
 なぜ文章が自己注釈的になってしまうのかについて考えないではないのだが、ひとつには考えながら書いているということがあると思う。事前に十分に考えてから小器用にまとめて書けと言われそうだが、事前に考えてその上さらに考えているのだと思いたい(!?)。もうひとつは、文章を簡潔に(!)しようとしているということがあると思う。まったく逆の結果になっているではないかと言われればそうなのだが、同時にそうでもないのである。もし噛み砕いて説明しだすと非常にくだくだしくなってしまう文章を自己注釈によって簡潔にしているということなのであって、要はこれでもまだましといいうことなのである(と思う)。
 釈然としないものが残ることは否定しないし、自己注釈的な文章が読みにくいことは依然そのとおりなのだが、ではどうするのがいいんだろうなぁ、しかし・・・。

 コフートはフェティシズムの原因を、幼時に母と祖母によって相当に過保護に育てられたUさんの症例をひいて、普通より過分に快を与えられたことそのものよりも非共感的にそうされたということのほうに問題の本質を見ながら説明している。つまり快も幼児の反応(や主体性)お構いなしに与えては倒錯を招くというコフートの見解である。
 確かにフェティシズムは無応答に与えられる快楽のようなものに違いなく、Uさんの育てられ方の偏りと型としてオーバーラップするような気はする。コフートもただUさんの事例のみに依拠して理論化してるわけではないとは思うわけだが、しかし読者としては一定の留保を必要とするところであるかもしれない。
 女性がペニスを持たないことが見ため的にあまりに恐怖なので身に着けているものとかをペニスの代替物とみなして愛着しようとする、というのが、フロイト的フェティシズムの説明だと思うが、コフートの説明と比較して格段に意味不明であることを確認したい(これではまるで女性にフェティシズムがない感じでもある)。 コフートがフロイトに反逆するのも無理はないのだが、さりとてコフート理論にハードな根拠があるわけではない。精神分析がどこまでも仮説の体系でしかないことは、それらしい説明に呑み込まれそうになったときに思い出すべき事実である。

 貨幣のフェティシズムにコフートの解釈をひきつけるとどうなるのだろう?ヒューマニティを捨象された記号への固着みたいなことなんだろうけど、確かに、無応答な快の提供者に貨幣は似ていなくもない。


追記(2014/06/21):
 「The Restoration of the Self」当該ページ画像あげてたんだけど、面倒なことになるのもいやなので削除した。文体が伝わらないと文脈上意味ないから引用の分量がやや多めになるのは合理的な理由があり仕方ないと思ったのだが、一般的な引用量と比較して、ちょっとやりすぎかもしれないとも思ったので自制することに。

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 私はネットのリストカット中継を二度だけ見てしまったことがある。前にも書いたが私はメンヘラの人の個人放送から意図して学ぼうとしていた時期があって、まぁそれならある意味もっと遭遇していてもおかしくないわけなのだが、私にはああいうのはとても苦痛でよく正視できないのである。それだけでうなされたり眠れなくなったりするとまでは行かないにしても、それに近いというか、少なくとも数日は気分が影響下にあることになるかもしれない。多少感じやすい傾向を自覚しているので、なんか対象者が荒れてそういう雰囲気になってくると私は早々に視聴をやめてしまう。しかしそれでも二回は見てしまったわけだが、今でも不快さでもてあますような記憶である。

 リストカットする人は自尊感情が低いとしばしば言われる。リストカットといえばBPD(!?)で、自尊感情が低いみたいな印象がなくはないが、むろん自尊感情の低さはまざまな起源と様態を持つものに違いない。
 BPDのような乳児期周辺をうまくクリアできなかったことが原因の一端だと思われているケース以外に、近親姦を含めるDVの被害者あるいはいじめを継続的に受けていたとか(トラウマ方面)、人生の選択に対する強い後悔を抱いてるとか(鬱方面)、自尊感情が低くなる様式はとても多様でそれがあるだけでこれだと言えることはまずないと思う。
 こういった人々でも、たとえば恋人などの理解者が現れて価値を肯定され自尊感情を(一時的に)持ち直すということは十分ありうることかもしれない。結婚とかしてその良好な依存関係がさらにずっと続くようならある意味問題が墓場まで持ち越されるような僥倖もありうるのかもしれないが(実際そんな平坦なわけないが)、仮に二人がいざわかれるとなった場合に、それまで普通の恋人関係にはない過剰な役割が担わされていた分、本来の状態が復元されるにあたって強い苦痛および不安が生じ、それにさらに破局自体がもたらす自己否定感情が追い打ちをかけるということになったりするのかもしれない。
 自尊感情の低い人が破局に際して激しい行動に出やすいのは上記のような依存の過剰部分が揺り戻しのように作用するからではないか。夢から覚めた落差が受忍限度を超えるのであろうか。

 自尊感情を高めるという場合に、成功体験を重ねよというアドバイスがよくあるが、これは多分BPDのように深いところに問題が根ざしているような人々にはあんまり効かないのかもしれない。また、実際「社会的」に成功体験を重ねられる人というのは特別な少数者でしかない。これはパンをケーキで代用するロジックに似ているし、それができたとして脆いバランスの上に成り立つ均衡でしかないだろう。
 自尊感情を他者との比較においてことさらに高めようとするのではなく(したければしてもいいいが)、何気ない普段の自分において或る静かな自尊感情を発見するような方向性のほうが有効なのではないかと思われる。「自分には価値がある」とむやみに念じ唱えるのではなく、普段のかなりリラックスした状態で「自分にはいつだってちょっとだけ価値がある」と思えるようになれば占めたものではないか?

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 タイトルは一見元も子もない感じだがあんがいそうでもないというか、「(無理に)分かり合おうとしない」というのが本質的に相当有効なやりかたではないかと思い始めている。ユルク・ヴィリィのナルシシストの分析を読み返していたのがきっかけなのだが、相手の偏りがどれだけ深刻かということは一応あるけれど(とても軽いなら話し合ったほうがいいかもしれない)、ある一定以上の深度の場合には、ほとんどコミュニケーションが不能な局面が多々あると思われる。あるいは彼らはコミュニケーションの積み重ねによって治ったりしないとも今更だが思われる。
 であるなら、無理することはないのだ。徒労のようなことはやめて、より全面的に「対処」に向かったほうがよっぽどまともだ。

※ナルシシスト(二次的自己愛障害)にありがちな反応経路
自他の区別の曖昧→他者愛の不在→欲望とエゴ(だけ)で統制される世界観→その世界観によった賞賛欲求→風変わりで的はずれないろんな出来事...

 ある程度通底する一次的自己愛障害の場合はまた現れ方がちょっと違うようだが、社会通念上言われるナルシシストはヴィリィによるところの二次的自己愛障害の方に近いだろうか。上の経路の一番最初の自他の区別の曖昧が重要で、ある意味希望のないところでもあるのだが、これはちょっとやそっとじゃ改善しない。人格の基礎部分のようなものであり、三つ子の魂百まで的に変わらないと思った方がいい。

 押してダメなら引いてみな、と言ったのが誰だか知らないが、なぜ今までこんなことに気づかなかったのかと思うほどだけど、実際に気づかなかったというよりその印象が大幅に更新されたとでもするのが本当かもしれないが。しかし私自身にもなにか一定のヴァルネラビリティがあったのかもしれない。諦めることによってある種の光が見えてきた感がなくはない。

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 こないだメンタルヘルスに興味をもったきっかけを少しだけ書いたが、私は内心において対象近親者をNPDだと断定してはいない。仮に実際本当にそうなのであったとしても、少なくともその傾向をある程度顕著に持っている人だという理解で十分なのであり、それ以上踏み越える必要は別にないと思っている。私に必要なのはどのように対応すれば現実的で良好な効果が現れるかであり、その効果が一般的な意味合いにおいて健全で正しいものであるようならそれでいいのである。
 ある程度偏りを納得しているとしても、それは人のタイプとしてであり、正式な意味での病名としてではないとも言えるかもしれない。
 たとえば、人は多様な理由で顕著に「話をコロコロ変え」るが、それが気分の揺れ動きやすさによるものなのか、生きる戦略としての日和見によるものなのか(大衆迎合的な政治家とか)、実際にコロコロ変えなければならないように現実が変化しているだけなのか(ほかにもたくさん)、などでそれぞれまったく意味内容が変わってくる。BPDを念頭に「気分」のスイングを中心に据えても、たとえばADHDのような人も気分がコロコロ変わるかもしれない。BPDの場合はスプリッティングや自己評価の低さや自我脆弱を基本に置く不安定さであり、ADHDはその種の脆さや傾向をあんまり持っていないかもしれない(し多動の傾向が顕著だろう)。そういう幾つもの差異を一定以上の時間と労力をもって地道に把握していく知識と態度がなければ、「断定」はまともな意味を持ち得ない。
 (厳しい意味での)判断がそう簡単な事じゃないと言いたくもあるのだが、たとえばひとつだけの人格障害を標的にする場合でもきわめて広範な知識が必要であり、ほとんど限りがないような面があるということなのである。DSMの診断基準を読んでも「類似の他の疾病ではない」みたいな意味合いのことがさらっと書いてあったりする。何気ない一行だとしてもこれはきわめて莫大な知識および労力を要する排他処理を意味している。医者は自分の職業的責任において診断書を出しているのだろうからそれはそれでいいのだが、彼らですら誤診(1,2)するのなら、素人としては拙速な断念をもつ必要は特にないように思うのだ。より良い方向に進んでいるかどうかを主に気にかけていればいい。

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BPDがパートナーを怒らせてしまう原因は、
1)言うこと(気分)がコロコロ変わる
2)構ってもらうために(常識ではありえないような)極端な行動に出る
3)口喧嘩で、普通は避けるようなことまで言ってしまう
4)相手を自分の駒のように捉えている時がある
5)何かすべきことがあるのにぐったりしている
6)その他
、みたいな感じであろうか??
 むろんこれらは、一時的には誰にでもあるようなことかもしれないが、傾向として普通より顕著かつ継続的だから相手が感情的になるのは言うまでもない。もちろんその上でBPDでも個人差があるだろう。
 こういう時、パートナーの側が、一瞬の感情を抑えて「保護者のような気持ち」になれるかどうかが勝負なのではないかと思う。対等の大人だと思うと腹も立つだろうし、それであんまりストレスが昂じると様々な意味で不測の事態ということにもなりかねない。
 以前も書いた気がするが、対等な個人の関係として「保護者役」をやり続けるのは矛盾であり、かなりの意志力を必要とすると思われる。はっきり言って健常ならまったく必要のない努力が多年にわたって要求され続けるのだから、最初はよくてもだんだんきつくなるのは目に見えている。
 パートナー側は怒りが昂じた時、近寄るのではなく、心理的にやや距離を取り、親のような気持ちになるべきだ。味気ないかもしれないが、それである程度「暴発」を避けられるかもしれない。通常の男女間ではそんなには必要のないはずのこの種の努力の見返りは、平穏の一時的回復以外特別なものはなく、やっているうちにBPDが上に列記した行動様式を意志によって改められるわけではない。と言うか、主観的にはもともとBPD側に悪気はない(たぶん)。
 賢いBPD同士のカップルとかなら、共通の次元で理解し合って「保護者役」を互いにやってあげる、いたわり合いのような関係もありうるのかもしれないが、しかし、それはそれで別の危険が台頭するような気はする。
 あと、怒りの(病的な)原因として、パートナー側が何らかの問題を抱えている場合も当然あるだろうけど、まぁ怒るってだけでは多様すぎて雲をつかむようなあれだ。

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 なんか近場の小規模店舗群の様子が思わしくない。
 今年に入って角地にあったドラッグストアの支店が潰れたのが皮切りだった気もするが、歯科医院が診察日を減らしたのはもうしばらく前か。
 小さい方のヘアサロンがこのところシャッターを閉めている。臨時休業の張り紙があるわけでもない。開店から二年くらい経っていると思う。めったにお客のいない飾り気のない店。
 しばらく行かなくなっていた100円ショップに菓子類購入のためにふたたび行くようになっているのだが、店主と言うかフランチャイズ契約者と思しき老人がレジをしていることが多くなった。京都は学生の街でもあるのでアルバイトの応募に困るとは考えにくい。フランチャイズ契約者自身がレジに立ち始めるというのはたぶんかなり状況がよくないのではないかと思う。


 奥さんが止めているだかで日本非公開の三島由紀夫をテーマとした映画「Mishima」は、やや精神分析的なアウトラインを持っている。三島のごく幼少期に、彼の祖母が若い息子夫婦からその男児を取り上げて自分の部屋に囲い込み、時に母を恋慕して三島がむずかると「あそこが痛いここが痛い」と幼い憐憫を誘って気をくじくような演技を繰り返した。前半に一定の時間を割いてこういうシーンが比較的丁寧に描かれる。
 終生自然に笑うことができなかったと言われる三島由紀夫が、健康な母子関係がもたらすべき情緒的な発達の機会を上記のような特殊な環境下で逃してしまったと考えるのは、たぶんそれなりにオーソドックスな解釈かもしれないし、映画もそのようなことを言いたかった面があっただろう。
 三島の祖母の異常行動がなんだったのかというのはひとつのテーマだと思う。三島は彼女のどういう欲望の犠牲者だったのか?男児を去勢しようとする女性の残酷な欲望は、たとえば「男性」に対するある種の復讐心から来ているだろうか?仮にそのような復讐心が餌食となる弱者を探すものだとしても、なにか倫理的なハードルのようなものがあってしかるべきで、三島の祖母がそのハードルみたいなものをやすやすと乗り越え得たのはなぜなのか?

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 メンタルヘルス方面の書籍を読んでると時々「色盲のたとえ」が使われることがある。つまり、色盲者は交通信号を見るときに、色ではなくどの位置のランプが光っているかによって信号の意味を判断する。それでもいちおう事足りるという。そして、(軽度)自閉症やNPDやサイコパスといった共感性に障害のある人々は、社会や共同体に適応しようとするときに色盲者たちとどこか似たような内的操作をするようだ。
 つまり、彼ら非共感者たちは、一次的にはその場の雰囲気が読めなかったり標準的な情緒を催さなかったりするのだが、半拍くらいはずれるとしても、周囲の人々のかすかな反応等をいち早く理性によって捉えることで、集団に馴染むような二次反応を自らに作り出すらしい。詐欺師などで頭のいいサイコパスなどはそのある種の熟達者と言っていいのかもしれない。
 しかし今日夜道を歩いていてふと気付いたのだが、夜間には信号機のランプの位置がよく分からないのである。確かに昼間は左が進め(青)とか色が知覚できなくてもランプの並びで分かるだろうが、夜はどの位置のランプが光っているのかとてもわかりにくいか、ほとんどわからない。
 世の中弥縫策というのはあるべきものだが、それにまつわる限界は必ずあり、中長期的にどこかではカタストロフィーに遭遇するのかもしれない。日常においても別のストレスが生じているくらいはあらわかもしれない。

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 最近、乳幼児から母親への投影ではなく、(母)親から乳幼児に対する投影のことを考えたりする。対象関係論でもやや手薄なところかもしれないが、もっと言えば病的な親からの乳幼児に対する投影と表現すべきかもしれない。病的な親は、未だ無垢な我が子に、自分の乳幼児だった頃の歪みを投影してしまうのではないかみたいな論点。

 演技性人格障害と呼ばれているものは、以前はヒステリー人格と呼ばれていたのだと思う。小さな子が思い通りにならない時に癇癪を起こしたり地団駄を踏んだりしたりすることがある。あるいは自分が家族の中で注目の的にならないことに強い不満を表明したりすることがある。また、まだ自己が固まらず、誰かを模倣したり自己陶酔的な演技をすることによって自分を(都合よく)表現しがちだったりもする。多少ネガティヴなことかもしれないが、こんなのは幼児期にだれでも経験するような反応に違いなく、親はたしなめたりなだめたりしながら現実を納得させていくものかもしれない。しかしこのような幼児性を大人になっても持続している人がいるとすると、本人あるいは周囲はそこそこ大変そうである。こういう幼児のわがままさやこらえ性のなさ、自己の曖昧さみたいなものが色濃く残った大人をヒステリー人格といい、比較的女性に特徴的であって、人格障害のカテゴライズの中では演技性人格障害と呼ばれているのだと思う。
 演技性人格障害は女、反社会性人格障害は男、でそれらは性別によるコインの裏表みたいな理解も俗にあるのかもしれないが、もしかするとそう簡単ではないかもしれない。それらは異性との組み合わせもありうるし、上に見たように演技性人格障害の本質はある種の幼児性の残存であり、反社会性人格障害の方は扁桃体など一定以上器質的な異常を起源とするみたいな説明を少なくとも私は信じている。したがって両者を単純に同じことの性別による裏表みたいな理解をすると間違うかもしれない。


 CGIサイトは100%自動にはできそうにないが、それなりに「ほったらかし」にはできそうである。幸い私的な技術的限界付近にあり、要はそれなりには頑張って作っていたのだが、これ以上の格段のバージョンアップはいずれにせよすぐには無理なので、まあ長めの様子見ということになるだろう。自動化で寝てても広告料が入ってくる(?)というわけだが、残念ながらとても少額である。

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 なんかChromeでMT4が使えるようになっている気がするので、特に申し述べることもないが書いている。バージョンが変わるとまた駄目になるかもしれないが。

 善悪の此岸。夢見がちなフリードリッヒ。
 統合は超越の側にあるのではなく、ただ私達の足元にあるのではないかと思うのである。

 他人が欲しがっているものが欲しくなるのは「人情」だけど、他者の欲望を介さないでは自分がなにを欲すべきかわからないようだと、どうなのか?

 クラインが『羨望と感謝』の中で羨望(嫉妬ではない)の原型を母親の乳房に対する羨望に見ているが、なんだかしっくりこないところだ。多分羨望が成立するほど自他の区別がまだはっきりしていないのではないかという疑念がはさまるからだと思う。

 エレンの歌3番は9割以上の確率で効くのだが(薬か)、先月初旬に抑鬱がどうのと書いていた時はあまり効かず、かなりあれだった。今は比較的ましなのであろうか。



Caccini - Ave Maria

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 一人の人物を他から切り取って解釈するのではなく、対人関係のダイナミズムによって理解できると様々なくもりも晴れてくることがあるのかもしれない。たぶん大なり小なり「すくみあい」のような面があって、それにからめとられながら生きている。そして表面的な「すくみあい」が病巣の核を隠匿していることがありうるかもしれない。

 自覚的にしろ無自覚的にしろ、夢見がちにすぎる人というのは危険人物なのだ。本来ならできるだけ近寄らない方がいいに違いない。

 「防衛(機制)のために他者を犠牲にすることを厭わない」というのが、対人関係における悲劇のある典型的な端緒なのかもしれない。むろん防衛(機制)の内容はいろいろだろうが、そこに悪意はなく、むしろ主観的な合理性すらある。自分が苦しめているのにもかかわらず、当人はそれを単に自然過程のように理解することになるが、むろん特に冷酷なわけではない。

 一般的なことが書かれてあるだけなのに、特に自分にだけ当てはまるものだと思い込むことを『バーナム効果』と言います。が、こういった行き過ぎた確信は他にも種類があるので本当にバーナム効果かどうか判断するのも、またたぶん難しい。


 今日CGIサイトの方にかなり恥ずかしいバグを発見で冷や汗。私の別ドメインのCGIサイトは微妙なアクセス数で、アフィリエイト等を本格的にやろうとするには少ないが、こぢんまりした個人サイトとしてはそこそこ人が来ている方かもしれない。メンテナンスやデバッグにあんまり労力を傾けるのもどうかという感じがあるが、それなりに人に使ってもらっているのである種の責任みたいなものが生ずるわけで、なんだか妙な気苦労みたいなものがある。しかし、根本的にしょうもないプログラミング能力しかないので、そっちの方を向上しないとなぁ...。 
 そういえば、サーバ側が翌日出してくるアクセス情報(このブログのもいっしょくた)を、より分けて解析するスクリプトを自分で組んだ。オンラインで動かしているCGI側のアクセス記録機能はできるだけ使いたくない。しかし、サーバ側が出してくるアクセス情報は前日以前は、容量を減らすためすべてZIP(gz)圧縮されていて、それをスクリプト内で解凍させるのに手こずった。他の人のサイトの情報をほとんどコピペで解決。なんでうまく行ってるのか、そうは分かっていない。あぁ...。 

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